第3回 サウスポー (島田健=日本経済)

◎急遽差し替えで誕生した名応援歌

▽作詞と作曲の名コンビ

 高校野球の応援ブラスバンドの定番ポップスといえば、山本リンダの「狙いうち」(1973=昭和48年)とピンク・レディーの「サウスポー」(1978年)が頭に浮かぶ。乗りが良く、グイグイと押してくる感じが70年代を表していて、いまだに甲子園球場を熱くさせる。両方とも作詞阿久悠、作曲都倉俊一というゴールデンコンビが生みの親だ。ピンク・レディーのデビューからバックアップしてきて、7枚目のシングルになったこの曲ではちょっとしたハプニングがあった。

▽ディレクターがダメ出し

一旦レコーディングが終了したのに、ビクターのディレクター、飯田久彦が、曲にパンチがないとして作り直しを頼んだ。飛ぶ鳥を落とす勢いの2人によくダメ出しをしたと思うが、2人もよく応じたものだ。まず曲の作り直しをしてから、飯田は阿久に詞の差し替えを依頼した。それも発売日の都合があるので、一晩でやってほしいという難題。そんな状況で突貫作業で生まれたのがこれだった。「背番号1のすごいやつが相手」「フラミンゴみたい」「ひょいと一本足で」「スーパースターのお出ましに」。まさに王貞治選手を思い浮かべる歌詞だが、最初のバージョンには一切無かったそうだ。ここら辺の経緯は阿久の「愛すべき名歌たち」(岩波新書)に詳しいが、後年同氏は王選手から「僕の歌をありがとう」と感謝された。

▽魔球ハリケーン

王選手は77年9月3日に756号という大記録を打ち立てた。まさに時代の寵児をピンクのサウスポーは魔球ハリケーンでキリキリ舞いさせる。この投手についてはモデルがあったといわれている。77年のオールスター戦で王選手を3打席とも打ち取り、西宮球場では三振を奪った当時クラウンライターの永射保だ。同投手は其の後、相手の主力左打者キラーとして大活躍、ロッテのレロン・リーや日本ハムのソレイタをカモにしたが、左腕下手からの大きなカーブが武器だった。オールスター戦をテレビで見ていた阿久が、大打者を打ち取ったそのカーブに感激して着想したのがハリケーンだった。

▽漫画のモデルにも

永射投手は17年6月24日に63歳で亡くなったが、その独特のフォームから水島新司作「野球狂の詩」の下手投げ女性投手、水原勇気のモデルともいわれている。左のワンポイントリリーフとしての存在を確立するなど、球界に足跡を残したが、2つの作品のモデルになるとは何とも幸せな投手人生といえる。もっとも1981年7月19日の平和台球場では、日本ハム・柏原純一に敬遠球をホームランされている。敬遠球は今季から申告すれば投げなくてもよくなる。この点でも永く記憶に残る選手になりそうだ。(了)