第7回 「日生球場」(1)―(取材日2007年8月中旬)

▽鈴木啓示、わずか観衆2500人の前の大記録

あのノーヒット・ノーランは、39年も昔の、やけに暑い夏の夜の野外劇だった。舞台は大阪城にほど近い小さな日生球場。快記録を達成した近鉄のエース鈴木啓示の唸る快速球は、心地よい一服の清涼剤だった。                       
 その日の日生球場の観衆は公式発表で2千5百人、スタンドはガラガラだった。発表はどんぶり勘定もいいところで、実数は千人いたかどうか。1968年8月8日の近鉄対東映18回戦のことだ。
 東映は森安敏明、近鉄は鈴木のエース対決なのに、両チームとも優勝戦線から取り残されていたのだから、閑古鳥が鳴くのも仕方なかろう。
 私も記者席で睡魔と闘っていた。昼間、阪神甲子園球場で高校野球大会の取材をして、引き続いてナイターの取材だから、居眠りの1つも出ようというものだ。
 ところが、やがて眠気が吹っ飛んだ。6回を終わって鈴木は1本の安打も許していないではないか。ひょっとして、完全試合か! 7回の表、東映は先頭打者の毒島章一が苦し紛れにセーフティバントを試みたがファウルになった。東映打線も記録を意識してきたらしい。
 鈴木の女房役、児玉弘義もそのころ「無安打」に気付いた。
 「ベンチの中がざわつき始めましてね。おいおい、ノーヒットやないか、と」
 鈴木は9回、最後の打者、代打の安藤順三を一塁のファウルフライに打ち取って、ついに大記録を完成させた。

▽ノーヒットノーランで生活してきたわけじゃない

許した走者は四球の2人だけ。奪三振は11、そのうち10個が空振りだったから速球の冴え具合が分かる。
 「よく覚えていないんですわ。確か、張本(勲)さんと白(仁天)さんが故障か何かで出てませんでしたな」
 意外や、鈴木はその日の調子も投球の組み立ても記憶にない。実は、その3年後の71年9月9日にも、やはり日生球場で西鉄相手に2度目のノーヒット・ノーランを達成している。最後の打者、菊川昭二郎が打ち上げたキャッチャーのファウルフライを捕手の岩木康郎がポロリとやった。この試合でも覚えているのはこれくらいである。
 岩木に聞くと、
 「いやぁ、申し訳なかった。あの日の鈴木? スピードがあった。だから右打者の内角高めのボール球を多く使いました」
 というのだが、これも鈴木の記憶にない。
 大記録の話を鈴木に持ち掛けると、こんな返事が返ってきた。
 「確かに記録は達成しました。だけど、ノーヒット・ノーランで飯を食ってきたわけやない」。
 鈴木は実働20年で317勝した。奪三振も3千61個でいずれもプロ野球歴代4位の記録だ。剛速球投手とは無縁に思われがちな無四球試合も78記録して日本球界の最多記録である。(続)