「大リーグ ヨコから目線」(14)-(荻野 通久=日刊ゲンダイ)

◎海外キャンプ取材の思い出

プロ野球も大リーグも、キャンプ、オープン戦のシーズンだ。以前はプロ野球でも海外でキャンプを行うチームが少なくなかったが、今年は日ハムだけ(アメリカのアリゾナ州)。
 日本の野球がレベルアップしたこと。円安になりアメリカキャンプは費用がかかるという為替の問題。日米の時差や暖かい沖縄での施設の充実。情報社会となり、わざわざアメリカに行かなくてもメジャーリーグの動向もすぐに日本に伝わる。
 そうしたことが海外キャンプ減少の理由だろう。

▽携帯電話のない時代、原稿送りの苦闘

私が初めて海外キャンプを取材したのは、1981年(昭和56年)。この年から指揮を執った藤田元司監督率いる巨人がフロリダ州ベロビーチのロサンゼルス・ドジャーズのキャンプ地に行ったときだ。宮崎で一次キャンプを行い、その後、フロリダに飛んだ巨人は各地でオープン戦も行った。
 一番、苦労したのが電話だ。
 当時はまだ携帯電話はなく、もちろんスマートフォンもパソコンもない時代だった。球場に臨時電話を設置した会社もあったと記憶しているが、経費の問題もあって公衆電話で日本に原稿を送ることになった。
 ところが公衆電話が極端に少ない。ベロビーチはもともと富裕層の避寒地で人口も少ない(おそらく数万人)。球場周辺はキャンプ期間をのぞけば人の出入りも限られ、公衆電話の必要性がほとんどなかったからだろう。
 試合が終わると選手、首脳陣、相手チームの関係者の話を聞く。急いで原稿を書く。書いたら公衆電話へダッシュ。遅れを取れば前の記者が終わるまで30分も40分も待たなければならない。時差の関係で締め切り時間が迫っているときは原稿を書かない。電話口で試合内容や談話を伝えた。
 電話はコレクトコール。電話でその旨を交換手に伝え、日本につなげてもらう。ベロビーチから東京へのコレクトコールすることなどまずない。交換手が不慣れのうえに、こちらの英語は文法も発音も拙い。会社に電話がつながるまでがまた大変。時間がかかった。

▽やっと来たタクシーには

もう一つ、忘れられないのがタクシーだ。
 チャーター機でロサンゼルスを経て帰国する巨人ナインと別れ、マイアミを経由で日本に戻ることになった。ベロビーチから長距離バスで向かうことになり、最寄りのバス停までタクシーで行くことにし、ホテルのフロントでタクシーを呼んでもらった。
 ところがなかなか来ない。フロントに催促しても「連絡してある」というだけ。バスの乗車時間が迫っているので気が気でない。
 1時間以上経ったころ、やっとタクシーがホテルの前に止まった。やれやれと思って乗り込もうとしたら、後部の座席に高齢の女性が乗っているではないか。
 ホテルに誰かを訪ねてきたのかと思ったら、ニコッと笑うだけでそのまま動かない。
 運転手は「乗れ」という。どうやら相乗りらしい。
 事情を聞くと、女性は郵便局に用事があり、途中で降りるという。タクシーは女性を郵便局まで送り、その後、バス停に急いだものの、一便乗り遅れてしまった。ベロビーチは公衆電話だけでなく、タクシーも極端に少ないようだった。
 今では考えられない出来事だが、キャンプの季節になると懐かしく思い出される。(了)