オリンピックと野球(5)―(露久保孝一=産経)

▽浪速で燃えたバッキー、外国人初の沢村賞に

 半世紀以上前の東京オリンピック開催の年は、プロ野球界にとって「変革の時代」であった。前年優勝した巨人、西鉄のセ・パ最強チームが沈没し、阪神と南海が新しい覇者となった。日本シリーズ関西決戦物語は、この連載2回目に書いた。
 変革には、阪神ジーン・バッキー、南海ジョー・スタンカという「超助っ人」の登場もあった。両投手とも、エースとしてシーズン通じて働き、チーム優勝に貢献した。そのうち、バッキーはペナントで29勝(9敗)し最多勝、防御率1・89で最優秀防御率に輝き、外国人として初めて沢村賞を受賞した。
 バッキーは米ルイジアナ州出身。1962年7月に来日して阪神にテスト入団した。191㌢、91㌔の大柄な右腕は、上手と横手からの変幻投法を使い分け、揺れて落ちるナックルボールを武器にした。64年は、オリンピック開催のためにペナントレースを例年より早めに終了する日程が組まれたが、セ・リーグは終盤に首位争いが過熱してもつれた。

▽大洋を連破し首位に、王とMVP争い

 9月26日、阪神は大洋とのダブルヘッダーを戦った。阪神が負ければ三原脩監督の大洋が優勝する。阪神は連勝あるのみで、藤本定義監督は第1戦をバッキーに託した。バッキーは完封で応える(5-0)。第2試合は、バッキーが九回一死から登板し、大洋を抑えて阪神が2連勝した。その勢いで、タイガースは残り3連勝しリーグ制覇した。
 バッキーは勝てる投手として大車輪の活躍をし、王貞治とのMVP争いとなった。結局、55号本塁打の王が獲得したが、王は、優勝に貢献したバッキーがもらうべきだ、とあとで漏らしたという。この話を人づてに聞いたバッキーは、「王さんはやさしい人だ」と感激した。その2人は、4年後の68年に乱闘事件を起こしている。
 その事件とは9月18日、甲子園での阪神―巨人戦で四回、王へ2球続けて厳しいボールを投げた。王が怒りマウンドに向かうと、両軍が集まり大乱闘に発展した。巨人の荒川博コーチがバッキーの太ももを蹴り、バッキーも殴り返した。両者とも退場処分を受けた。王は、代わった権藤正利から頭に死球を受けて病院に運ばれた。その後、バッキーと王、荒川コーチは仲直りした。

▽メッセンジャーよ、100勝して僕を超えろ

 虎ファンに愛されたバッキーは引退後、ルイジアナ州で中学の教師を務めながら、牧場を経営していた。
2010年から阪神でプレーしているランディー・メッセンジャー投手は、バッキーを尊敬し連絡を取り合っていた。バッキーは、日本で98勝しているメッセ―ジャーが、自分の100勝の記録を超えるのを楽しみにしていた。ところが、メッセ―ジャーは2019年9月13日、現役引退を発表した。その翌日、バッキーは生まれ故郷で82歳の生涯を閉じた。
 バッキーは、阪神でオリンピックの年に沢村賞を受賞したことを、引退後はずっと名誉にしていたという。訃報に触れ、あの良き時代のアメリカ人のヒーローを思い出した往年のファンも少なからずいたと思われる。合掌。(続)