「100年の道のり」―プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎兵役、学校中退、トラブルの中の武者修行

 
大日本東京野球倶楽部は武者修行に出かけることになった。行く先は、むろんアメリカ。野球の本場である。

▽沢村、三振の山 順当な仕上がり

 1935年(昭和10年)2月14日、一行は秩父丸に乗船、およそ2週間の旅だった。総監督・市岡忠男、監督・三宅大輔、選手18名。
 選手は次の通り。

▽投手

沢村栄治、青柴憲一、畑福俊英、ビクトル・スタルヒン▽捕手 倉信雄、中山武、内堀保

▽内野手

永沢富士雄、江口行雄、田部武雄、水原茂、苅田久徳、新富卯三郎、津田四郎

▽外野手 

ジミー堀尾文人、二出川延明、矢島粂安、山本栄一郎

 当初のメンバーと異なる。
 主将だった久慈次郎がキャンプから不参加だったことから、二出川が後任の主将に指名された。副主将に矢島が就いた。
 キャンプの後、腕試しを行っている。1月下旬、名古屋鉄道管理局との試合が初めてで、青柴が完投して勝った。第2戦は沢村が先発、三振の山を築いて勝った。順調な滑り出しだった。

▽文部省から横やり、中退して参加

 このメンバー編成はいろいろな事情が絡んでいた。
 攻守の主力だった三原脩と中島治康が不参加となっている、理由は「入営」のため。実は、この時代、日中戦争の最中で、決して平和な雰囲気ではなかった。数年後に太平洋戦争に突入するのだが、敵国となるアメリカに遠征するとは、と思わずクビを傾げたくなる。
 こんなトラブルもあった。高校在学中の3年生だった中山(享栄商)と内堀(長崎商)に絡む出来事だった。
 2人は卒業試験を終えた後の2月下旬に日本を出発し、アメリカで合流する予定を立てていた。
 文部省が口を出してきた。
 「卒業式が終わるまでアメリカに行ってはならん」
 文部省が発布した野球統制令を持ち出したのである。卒業式が終わるまで金銭を生む試合に出場してはならない、と。アメリカに行くなら退学して行くように、ということだった。
 卒業試験から卒業式まで1週間もなかった。しかもアメリカでの入場料を取る試合は3月中旬からだった。
 「それじゃあ、退学して行く」
 両選手はそう決断。それで秩父丸の一員ととしてアメリカに向かった。(続)