山崎裕之インタビュー(5完)―(露久保孝一=産経)

◎僕も聖火リレーランナーだった

▽高校3年生で選ばれる

―2020年夏に東京オリンピック・パラリンピックが開催される。山崎さんには、懐かしいオリンピックの思い出がありますね。
山 崎「僕は上尾高校3年の時に聖火リレーを務めている。当時のことは、はっきり覚えている」
―どんなコースを走ったのか?
山 崎「今は(埼玉県の)県道となっている中山道を走った。その頃は国道だった。メーン通りを800メートル走った。指定された時間通りに、ちゃんと走ることができた」
―聖火ランナーは全国で選手が走ってつないでいき、国民から注目された。山崎さんが走った時も、沿道には大勢の見学者が集まったのではないか?
山 崎「その日は、雨模様だったけど、たくさんの人が見守ってくれた。日の丸を振って声援してもらい、うれしかった」

高校3年生の山崎

胸を張って、さっそうと走った高校3年生の山崎。聖火ランナーを務め、半年後にはプロ野球選手となる(山崎氏提供)

▽野球と聖火リレーは関係なかった

―多くの見学者と日の丸を見て、何か感じるところはありましたか?
山 崎「まだ、高校生だったからね。地元を代表してとか、国ためにとか、そういうことまでは感じなかった。ただ、自分にも学校にも、恥ずかしくないようにきちんとして走りをしなければいけない、という思いはあった」
―走る時に、何か心がけたことは?
山 崎「事前にトーチの持ちを教わった。沿道の人からよく見えるように、と。使ったトーチと聖火ランナー・シャツは、その後、大事にもっている」
―山崎さんは高校1年から「長嶋二世」といわれ、3年生になってプロ入団のことで報道された。そのような雰囲気の中での聖火リレーだけに、注目されたのではないか?
山 崎「そういうことはなかった。とにかく、オリンピックを盛り上げるイベントだから、野球との関係はなかった」
(1964年の聖火リレーには、各都道府県から中高校生も参加したが、プロ野球選手になった中には、山崎のほか、中日に入団した谷沢健一が千葉県で選ばれている)

▽野球、ソフトが除外されるとは

-2020年のオリンピックは、どんな風にみていますか?
山 崎「いろんな新しい種目ができて、知るのが大変だ。競技多様化してスポーツファンが増えるのはいいが、日本で愛されているスポーツが軽視されるのはどうかと感じる。野球とソフトボールが東京限りとはね。24年パリ五輪で、除外されるのはすごく寂しい」
―オリンピックは、本来の競技大会という姿からかなり変わってきているといわれる。
山 崎「完全な商業主義の大会になっている。カネがかかりすぎて、商業のための大会になってしまっているからスポーツが歪んでしまっているのだと思う」
(IOC=国際オリンピック委員会=が、スポンサー企業の優遇とマスメディアからの高額の放映権料で収益を上げる一方、競技場関連の建設費用、環境問題にかかわる巨額投資などが大きな問題になっている)

▽涼しい高原で日本を応援します

―元聖火ランナーであり、同じスポーツ選手として、出場する日本選手へのエールは?
山 崎「やはり、競技する時には全力を出し尽くしてやってもらいたい、ということ。結果は、そのあとについてくるもの。もちろん、代表選手の晴れ姿を期待しています」
―楽しいテレビ観戦ができそうですね。
山 崎「夏の大会だから、僕は都会の喧騒を離れて、涼しい(栃木県の)那須の別荘で静かにテレビ観戦を楽しむつもりです」(完)