「オリンピックと野球」(8)-(露久保孝一=産経)

◎五輪選手からプロ野球の世界へ

▽短距離のエース飯島、東京五輪で不覚の転倒

 陸上のオリンピック短距離走からプロ野球に転身した選手がいた。スプリンターの飯島秀雄である。
 1964(昭和39)年東京オリンピックの少し前、当時の西ベルリンで行われた国際陸上競技会で、手動計時で100m10秒1を記録した。それまでの吉岡隆徳の日本記録10秒3を29年ぶりに更新し、一躍東京五輪の星と注目された。

 東京五輪となり、第1次予選を最高タイムの10秒3で通過した。第2次予選も10秒5でクリアしたが、なんとゴール直後に転倒してしまう。これが尾を引いて、準決勝では10秒6と後退し、決勝進出はならなかった。
 次の68年メキシコ五輪でも準決勝で敗退した。
 ところが、その飯島に「幸運」が訪れる。68年11月のプロ野球ドラフト会議で、東京オリオンズ(現ロッテ・マリーンズ)から9位で指名された。

▽88盗塁目指し、初盗塁がサヨナラ勝ちに

 「日本一の快足をもってすれば、らくらく盗塁。盗塁王間違いなし」
 永田雅一オーナーは、話題づくりのため、飯島の足に5000万円の保険をかけ、盗塁記録85を超えるように、と背番号を「88」にした。
 この宣伝効果は絶大で、公式試合デビュー戦には大勢の観客を東京スタジアムに集める。
 69年4月13日、南海戦の九回裏無死一塁で、飯島は代走として登場した。大胆に初球から二塁へ走る。野村克也捕手の送球をかいくぐりセーフ、さらに守備の乱れる間に三塁へ進んだ。
 そして犠牲フライでホームインする。初盗塁がサヨナラ勝ちを呼び、ヒーローになった。
 「ほら、みろ!」
 永田オーナーは高笑いした。
 しかし、雄姿は尻すぼみ。その後、飯島は徹底的に他チームバッテリーからマークされ、1年目は10盗塁、2年目12、3年目は1つしかできなかった。
 プロ野球人生は3年で終わる。試合数117、盗塁23、盗塁死17とともに、打数0(もちろん打率.000)という、「不思議な公式試合記録」を残した。
 当時チームメートだった山崎裕之は、こう話す。
「2年間一緒にやった。よーいドンでスタートを切るタイプだから、プロの走塁とは違う。走塁は、投手の動きを目でみて一瞬の判断でスタートを切る。彼は足が速から、タッチアップとか二塁からのホームインはすーっとできた」
 歴代の盗塁ビッグスリーの福本豊、広瀬叔功、柴田勲みたいな「投手のモーションを盗んでスタートする」という職人芸は、飯島には困難だった。
 しかしながら、チーム貢献度は高かった。飯島が代走で塁に出ると、相手チームに「走るぞ」というプレッシャーをかけ、打者への投球が甘くなって味方打者がヒットするケースが多かった。117試合すべてを塁上から出場した「代走屋」は、それゆえに、「貴重な存在」と呼ばれたのも確かである。

▽レスリングから国鉄で挑戦した桂本

 他にも、五輪出場後にプロ野球入りした選手に、国鉄(現ヤクルト)の桂本和夫がいる。
56年、レスリング選手としてメルボルン五輪で5位入賞。翌57年から60年にかけ、スワローズの外野手で活躍を目指したが、通算9試合、9打数2安打、打率.222の成績しか残せなかった。
レスリングで鍛えた腕力、強靭な下半身を持っていたが、野球では投打の技術が必要であり、それだけに桂本は苦労したようだ。
 少年時代は、いろんなスポーツをおこなうチャンスがあり、2つ3つ掛け持ちで競技に参加する選手もいる。しかし、プロ野球となると高度なテクニックが要求され、他のスポーツ競技との両刀遣いは夢物語であろうか。(続)