「評伝」野村克也

◎栄光の裏に思考と愛情の好リード
 昭和時代に戦後初の三冠王に輝いた野村克也さんが2020(令和2)年2月11日死去した。84歳だった。
南海(現ソフトバンク)で捕手のホームラン打者として数々のタイトルを獲得し、その後ロッテ、西武に渡りプロ現役を27年間続け、歴代2位の通算3017試合に出場した。通算安打2091、本塁打657、打点1988もすべて歴代2位の記録である。
 監督としては、ヤクルトを3度日本一に導き、阪神、楽天ではチームの土台を築き後任の制覇へ結びつけた。
野村さんが生まれた1935(昭和10)年は、奇しくも日本にプロ野球が誕生した年(東京巨人軍が同年1月に第1戦)であり、まさしくプロ野球の歴史とともに生きてきた。燦然と輝く球歴とともに、ファンにとって身近な存在であったのは、選手時代からの名言・迷言で人を驚かし、唸らせ、魅了した「考える言葉」であった。
私たち野球記者は、野村さんから野球テクニックとともに人生哲学、経営指南まで教わり、記事にしてきた。原稿締め切りが迫る中、試合結果をさっと名解説してくれ、助けられたことも何度もあった。
 野村さんの死去が報道されたのは、夏の東京オリンピック・パラリンピックを半年後に控え、また中国から発生した新型コロナウイルスが世界に爆発蔓延し始めたときであった。そんな中、野村さんの訃報記事は全国紙がⅠ面で報じ、テレビでも大きく取り上げ華やかな足跡を振り返った。その報道ぶりからも、野村さんの偉大さがうかがわれた。
野村さんは現役時代、パ・リーグでプレーしたため、1965年の三冠王や61年から8年連続本塁打王を獲得した時でさえ、その偉業の記事はセ・リーグに比べて小さく、ましてや捕手としてのリードや駆け引き面など記事になることは皆無に等しかった。
しかし、そこでの苦心、努力、研鑽が「頭脳野球」を生み、現役後に野球解説、監督として「野村スコープ」「ID野球」を花開かせた。お茶の間の視聴者を、野球ってこんなに奥が深く面白いスポーツなのか、とさらに興味を抱かせたのである。(露久保孝一=産経)

次回から連載「考える月見草」を掲載します。
私たちは、野村さんの「記事になるための刺激、過激発言」を、大いに活用させてもらった。感謝するばかりである。もちろん、野村さんは生の人間であり、聖人君主ではない。そこに、滑稽な行動や、奇怪な発言もあった。
そんな言動を含め、野村さんの野球人生、野球哲学を4月から連載で記事にします。題して「考える月見草」。私(露久保)が、現役引退前の野村さんの愛車に乗り、長いドライブで聞いた秘話も初公開します。
【野村克也、捕手は第二監督】レポート課題】 
「捕手は第二監督なんだよ。守備についたら一球ごとにサインを出して、野球というドラマの脚本を書いているんだ。巨人V9のときの森祇晶とか、西武黄金時代の伊東勤とか、南海のオレとか。そういう名捕手は出ないもんかね」