「100年の道のり」(38)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎野球世界選手権構想、前畑金メダル、そして必死の巨人
 二度の日米野球は大リーグを喜ばせた。1936年5月、大リーグからこんな提案があった。
「世界選手権をやろうじゃないか」
最初は香港で開催し、その次は「貴国」、つまり日本の東京で開こうという話だった。
現在はワールド・ベースボール・クラシック(WBC)という形で行われているが、80年以上も前にこんな話を持ち込んできたのだから、大リーグの世界戦略には恐れ入るばかりである。
藤本定義を監督に迎えた巨人は、その要望にこたえるように、チーム作りに躍起となっていた。その中の一つに満州シリーズがあった。7月から8月にかけての遠征だった。
その最中、今では考えられない出来事が起きた。
「東京に帰る」
監督がチームを残して帰国するというのである。理由はこうだった。
「負けてもヘラヘラしていやがる。これじゃあ、まともなチームはできないさ。オレに考えがある」
藤本は8月中旬に帰国すると、まず手を打ったのがコーチ採用。母校早大の関係者に伝えると、推薦してきたのが三原脩だった。
この8月、ベルリン五輪で前畑秀子が女子200㍍平泳ぎで金メダルを取り、日本中はその快挙で持ち切りだった。藤本も興奮したが、巨人を鍛え上げようと必死に動き回っていた。
とにかく三原だ、と。藤本は三原が兵役から戻ってくるのを待ち構えていたかのように、口説いた。三原は巨人が創立したときの契約第1号選手。大学の先輩の思いに同調し、復帰した。助監督である。
練習場所は分福茂林寺グラウンド。群馬県館林にあった。
 9月5日から練習は始まった。選手たちは満州遠征から帰ってから1週間足らず。藤本の顔つきが違っていた。
 グラウンドはお粗末だった。石は転がっているし、あちこちにへこみがあるデコボコ状態。選手の不満をよそに、藤本は三原とともに容赦なくノックを浴びせた。
 伝説となっている“茂林寺の猛練習”である。
 「オレは辞表を懐に入れてやった」
 藤本の述懐である。この練習は、巨人の基礎を作った、といわれたもので、やがて第1期黄金時代を生む。(続)