「100年の道のり」(42)-プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

1936年スタートのリーグ戦には7球団がエントリー。名古屋を本拠にしたチームが2つあった。「名古屋軍」(以下名古屋)と「名古屋金鯱軍」(以下金鯱)である。
 名古屋は選手集めに苦労した。資金不足だった。総監督に就いた河野安通志(あつし)は早大出身を生かして東京六大学に狙いをつけたが、大物を獲得することはできなかった。戦力になったのは明大出身で主将に任命した中根之(すすむ)くらいで、秋のリーグ戦で首位打者となった。
国内ではテストを行った。その中に、のちの中日の看板選手がいた。西沢道夫、14歳11か月の少年である。投手として20勝、打者として首位打者となった、本格的二刀流だった。中学生だったので選手登録はできず、背番号のない養成選手の採用となった。
 と同時に外国人を取った。ロサンゼルスから投手、捕手、内野手の3選手である。捕手のバッキ―・ハリスはイーグルスに移ってMVPに選ばれている。
 河野は大学時代、米国人チームと対戦して活躍。その鉄腕から“アイアン・コーノ”と呼ばれた。その後、日本初のプロ野球チームである日本運動協会(通称・芝浦協会)を立ち上げたが、関東大震災の煽りを受けて解散。野望をプロ野球に託した。
 金鯱の親会社は名古屋新聞社。当初、監督に巨人の助監督だった二出川延明(明大)を迎えたが、シーズン初めに退団して審判に転向。後任は島秀之助(法大)。この両者は戦後、二出川がパ・リーグの、島がセ・リーグの審判部長となり、プロ野球の黄金時代を支えた。
 注目されたのはエースの内藤幸三(こうぞう)。軟式出身だが、左腕の剛球投手として全国大会で優勝。「沢村栄治(巨人)に匹敵する」という評判で、米国遠征する巨人の送別試合で勝っている。
 内野手に広島・広陵中の濃人渉(わたる)の名前がある。戦後、中日監督のあと、東京監督としてV9時代の巨人と日本シリーズで戦った。
 忘れてならないのは外野手の黒沢俊夫(関大)。左の好打者で、のち巨人に移り、戦後復活したとき最初に4番を打った。俊足でホームスチール10を記録している。47年のシーズン途中、腸チフスで急逝。背番号「4」が永久欠番になった。
 当時、プロ野球は「異端児の集まり」といわ、社会的地位は高くなかった。それが選手獲得の壁となっていた。多くの優れた大学生は社会人に進んだ。そのため各チームは米国、中国大陸の社会人チームにまで手を伸ばしている。(続)