「菊とペン」(22)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎忘年会シーズン、12月思い出の3選
 コロナ禍が一服したと思ったらなんのことはない。新たな変異株が登場した。再びの警戒態勢だが、それでも今年は昨年に比べて人々の気持ちが少し緩み、忘年会など飲酒の機会も増えるのではないか。12月、酒のシーズンの笑える、いや笑えられない思い出話を。
▽また見ちゃったよ…。
40代後半、管理職時代のことだ。12月中旬の日曜日、出勤である。当時社は大崎にあった。日暮里から山手線である。乗る位置は決めていた。大崎駅での降車を考えてのことで、スーと電車が滑り込んできた。午前11時頃だ。 車内へ、アレッ、左ドア寄りの座席に寝っ転がっている人がいる。車内は空いているものの非常識である。乗客たちは一瞥をくれるが、その目には一様に軽蔑の色が浮かんでいる。
 まじまじと顔を見る。エッ、某社のX君ではないか。爆睡である。起こそうと思ったが「小さな親切、大きなお世話」という諺もある。(本当か?)、そのままにした。第一、気持ちよさそうである。いい夢を見ているようだ。いびきもかいている。
そっとしておいた。でも、起きるまで山手線を何周するのだろうか。乗客たちの顰蹙などどこ吹く風、もっとも本人は預かりしらないところだが。
社に着いてX君が所属する社の知人に電話を入れた。
「ああ、どうせ朝まで飲んでいて、タクシーを使うと金がかかるので寝ていたんでしょう。それに山手線だと変なところに行かずにすみます。安心ですからね」
どうやら山手線はホテル代わりのようで、酒飲みらしい知恵と工夫である。心配して電話をかけたオレがバカだった。あれはあれでいいのか。妙に納得だ。
 その1週間後の日曜日、全く同じ状況である。時間、乗車位置…乗り込むと左ドア寄りの座席に何人分も占領していびきをかきながら爆睡する男が。エッ、またもやX君であった。なんという奇遇、おなじことが2週続けて起こった。一体、どれほどの確率なのか。
 乗客たちの彼を見る目も全く同じだ。前回同様、別な車両に移った。 3週目の日曜は休日、果たして同じことが起こっていたのか。いまでは知る由もない。
▽滑り込みセーフ
これも山手線でのことだ。年代は思い出せない、12月の下旬は確かだ。その日は知人としこたま飲んだ。終電近かった。酔っ払いながら山手線のホームに立って電車を待っていた。周囲は酔っ払いで、いまでいう密状態である。
 電車が入ってきた。どの車両もめちゃくちゃ混んでいた。だが、目の前で止まった車両だけはポッカリと空間ができていた。なにも考えず、「ラッキー」と心で叫んだ。
 足を踏み込んだ。ズルッという嫌な感触がした。目の前、ゲッ、泥酔者が「小間物の店を開いていた」のだ。(注・つまりゲロのことでいまでは死語。いい日本語なのに)
 で、滑った、革靴だ。転びそうになった。両手両足を必死に動かしてバランスを取る。いまにして思えば若いからして成しえた神業ではなかったか。なんとか態勢を立て直して向かい側のドアにしがみついた。
 乗客たちは息を殺して見ていた。そこで思わず両手を広げて、「セーフ」とやった。酔った勢いだ。すると乗客たちの間から拍手が起こったではないか。
 悲劇は次の駅だった。やはり、私と同じように「ラッキー」とばかりに勢いよく飛び込んで来た中年紳士、背中から転んでしまったのである。バツの悪そうな顔、高価そうなコートを着ていた。乗客たちはみな視線を下にしていた。
 でもさすが、紳士である。わが身を顧みず、持っていた新聞を床に広げたのだ。でも、拍手は起きなかった。
▽御用納めの日の惨劇
バブル期の最後の方だった。12月、新年をあと数日で迎えるという日だった。そう、御用収め、それも終電での出来事だった。私鉄である。オフの夜勤を終えて、先輩方と一杯やっての帰宅だ。始発から2つ目の駅であり、すでに満員もいいところだ。
 ぎゅうぎゅう押されてやっとつり革につかまった。左隣は中年男性、ご酩酊の様子で両手でつり革を握りながら頭を前後左右に揺らしている。いつ倒れるか、こちらは気が気でないが、身体を揺らしつつもしぶとくつり革にぶら下がっている。
 だが、顔色は青白い。時折、うぷっうぷっという嫌な声を出す。私、少し酔っていたがこれがなんの予兆かピンときた。だが、動けない。避難できない。それでも、だれもがこの男性の異変を本能的に察したのか、ジリジリ距離を取っていた。
 男性の目の前はOLさんのようだ。おそらく御用納めなのだろう。リラックスした表情でなにかのパンフレットに目を落としている。目を上げない、つり革のおっさんの異変に気付かない。
 2、3駅が通過し、それは起こるべくして起こった。酒臭さが充満する社内、暖房の効き過ぎ、揺れる電車…条件がそろっていた。
 おっさんは顔を一度上げると、うえええっと絶叫しながら目の前のOLさんの頭に小間物を広げたのだ。(②の注参考)
 きゃあああああ…今度はOLさんが絶叫である。こちらにもとばっちりが飛んだ。その後のことはよく覚えていないが、OLさんは次の駅に脱兎のごとく降りて、なにかを叫び続けていた。
 おっさん、つまり男性はOLさんの席にちゃっかり座ると高いびきとなった。電車は何事もなかったように進行して行く。
 いまだったら大変なことになっていただろう。この惨劇をスマホで動画を撮られて世間に拡散させられていたに違いない。
 私のコートにも小間物の残骸が。翌朝、女房に「どうしたの?」と聞かれたが、説明するのも嫌なので知らん顔をした。それにしても、あのOLさん、あの後どうしたのだろう。いまでも気にかかる。皆さん、酒には気を付けましょうね…。(了)