「評伝」古葉竹識君と私-(岡田 忠=朝日)

低音の響きのいい声はほれぼれとする男性的な魅力があった。元広島東洋カープの監督、古葉竹識君(享年85)である。その声が突然消えてしまった。細身だが軽快な動きで、あんなに元気だったのに……。鉄人・衣笠祥雄君が逝ったときと同じ呆気なさに寂しくてならない。
同じ1936年の生まれだからお互いに「兄(ニイ)ちゃん」と呼び合った。「ようアンちゃん」といったニュアンスで。選手と取材記者として長い付き合いだが、より親密度を深めたのは75年に広島東洋カープがリーグ初優勝した辺りからだろう。万年Bクラスのお荷物球団を見事に優勝させたのだから、古葉監督の人気は沸騰した。
その時の広島の熱狂ぶりが凄い。平和大通りの優勝パレードには約30万人のフアンが道ばたに溢れ、選手たちが乗る車の列に向かって、口々に涙を流しながら「ありがとう」と叫んだ。「おめでとう」と言う前に。原爆で亡くなった人の遺影抱いた家族もいた。
何を隠そう私も感涙に蒸せた一人だ。中学生のころ、広島県営球場に小1時間かけて歩いて通い、浮いたバス代を樽募金の樽の中に投げ込んだ。カープ誕生以来のファンという妙なフライドを持って。後に取材する立場になっても初優勝がどんなに嬉しかったことか。この辺りから古葉という男その人柄に強くひかれ、次第に友情が厚くなった流れかと思う。
監督の古葉君は野球に関してはとても厳しく、気の抜けたプレーには鉄拳も辞さなかった。ある時、凡ミスをした選手に蹴りを入れたら、見事に空振りしてベンチの端に右の親指をぶつけ骨折しかけたことがある。「あれから(ケリは)やめたよ」と苦笑いしていた。
普段は人当たりのいい紳士なのにユニフォームを着ると人が変わる。それだけ野球と真剣に取り組み、妥協を許さなかったのだろう。広い視野で合理性を求め一人の選手に数カ所のポジションを守らせ、高橋慶彦、山崎隆造、正田耕三選手をスイッチヒッターに育てて看板の機動力野球を仕上げたのも古葉流の産物か。
かといって、まったくの堅物でもなかった。春の日南キャンプのときなど日南市内では人目につくからと約4キロ離れた飫肥(おび)の街まで出掛け気分転換をした。遠征中でもカラオバーへ行き遅くまでマイクを握ったこともある。オンとオフの切り替え上手な大人だった。
勝負に携わるプロ野球の監督は悩み多き職業の一つである。彼の苦悩にフルイニング連続試合出場の記録を続ける衣笠祥雄君の扱いがあった。
79年の衣笠君は序盤から極度のスランプに陥っていた。74年4月17日以来続けていた三宅秀史さん(阪神)の持つ700試合のプロ野球新記録まであと22試合に迫っていたのに、一向に不振から抜け出せない。5月27日の時点で打率が1割9分8厘まで落ち込んだ。鯉のぼりの季節に躍進を期待するファンは、「記録づくりのために出場している」と辛らつな声を浴びる。さすがの古葉君も決断せざるを得なかった。翌28日の中日戦でついに衣笠君を先発メンバーから外したのだ。記録は678試合で途切れた。ただ、6回裏に代打で使ったので連続試合出場の記録は継続したが。
その数日前、夜勤をしていると古葉君から電話が入った。会話は衣笠君の話題になる。「キヌも苦しんでいる」と彼は気遣った。だが、話の端々にチームの現状が頭から離れない様子がありありと伺えた。「記録も大切だが、チームに支障が出ては」という意味のことを私は言ったと思う。古葉君も監督の立場としてそんな理屈は十分承知。彼は記録が途切れたときのマスコミの反応を知りたがったのかと思う。彼の心中を察した。
プロ野球に限らず、アマ球界や少年野球の育成にもかかわった彼は、天国へ旅立った今も指定席のあのバットケースの陰で、腕を組みしながら、後輩たちを「厳しく」また「優しく」見つめているだろう。(了)