「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(6)「その時を語る」ー(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)

1965年度の村上雅則の保有権を巡る南海ホークス(現ソフトバンク)とサンフランシスコ・ジャイアンツの対立は激しさを増すばかり。互いに一歩も譲らない。さまざまな対策、交渉が行われるが、事態は一向に好転しない。そうした中、ついに内村祐之プロ野球コミッショナーが事態収拾に乗り出す。
―両球団の話し合いが進展しない中、村上さんは65年2月1日に南海と契約しますね。
村 上「当時、私は南海の中モズの球場で練習をしていた。練習終了後に球団事務所に行き、契約書にサインした。両親はアメリカに戻ることに反対していたし、南海もジャイアンツには戻さないという。恩のある南海の鶴岡(一人)監督も『(アメリカへは帰さんぞ』と。そうしたことをいろいろと考えて、アメリカではプレーしないと決心して契約したわけです」
―ところがそれが「二重契約だ」と新たな問題に発展することに…。
村 上「64年の11月にジャイアンツと65年度の契約をしたのですから、今から考えれば確かに二重契約になる。だけど当時はまだ若かったから、『二重契約』になるとはわからなかった。そもそもそんな言葉すら知らなかった。球団からは『お前は帰ってくると思っていたよ』と言われましたが、『二重契約』に関して説明はありませんでした」
―大リーグ機構もジャイアンツも「二重契約」で態度をより硬化させることになるわけですが、その直後、村上さんはジャイアンツのストーンハム会長に手紙を書いたと聞きますが…。
村 上「書いたというより、球団に書かされたというのが正直なところですね。本当は『I am sorry』という 謝罪とともに『南海球団、鶴岡監督に義理があるので渡米できない』と書きたかったのですが、『義理』の説明が難しいし、アメリカ人にはわかりにくい。それで『自分は長男であり、両親は手元に置いておきたい。日本独特の家族制度を考えると、これ以上、日本を離れるわけにはいかない』と」
―ホームシックのことにも触れたそうですね。
村 上「64年の渡米前に南海とジャイアンツで結んだ契約書の中に『(選手が)ホームシックにかかり、米国におけるプレーならび生活に支障をきたし、本人が帰国を申し出た場合、無条件に譲渡され、日本に帰らせる』という項目がある。球団に知恵の働く人がいて『村上を帰さない手はこれだ!』となった」
―実際にホームシックになったのですか?
村 上「ホームシックになったのは1Aのフレズノでプレーしていた時。2試合連続で敗戦投手になった。実は2試合連続で敗戦投手になったことは2回あった。最初のときはそうでもなかったが、2度目の時はさすがに気持ちが落ち込んだ。『日本なら慰めてくれたり、励ましてくれたりする人がいるのになぁ』と日本が恋しくなった。それ一度きりでその後はまったくなかったが、そうでも書かないとジャイアンツに納得してもらう方法がないと思ったわけです。ジャイアンツには申し訳なかったですが・・」
―そんな中、3月になってプロ野球の内村コミッショナーが解決に乗り出し、大リーグのフィリック・コミッショナーに調停案を出すことになります。
村 上「内村コミッショナーは64年からの一連の経緯を調査して結論を出してくれました。①1965年度はジャイアンツでプレーする。②66年度以降の保有権は南海ホークスにある、というものです。65年度の契約に関してはジャイアンツの主張が正しいと認めたのです。そしてこうしたトラブルが起きた原因は、南海がジャイアンツと交わした契約書の内容、64年のシーズンオフにジャイアンツから受け取った1万ドルの意味(前回のインタビューを参照)を十分に理解していなかったためで、南海側の不手際によるものとしました。その上で悪意のない過失であると説明。同時に私の両親の話を聞き、不安に駆られる気持ちや息子には日本でプレーして欲しいとの切実な思いもくみ取り、アメリカ側を説得してくれました」
―内村コミッショナーの調停案を米コミッショナー、ジャイアンツも了解、やっと解決に向かうことになったのですね。
村 上「これでまた野球ができる、と本当にうれしかった。それまではキャンプに参加して練習をしていても、オープン戦には登板できない。正式には所属球団が決まっていない状態なので、いつ試合に出られるのか、具体的な目標が何もない。2か月先でも3か月先でも、投げられる日が決まっていれば励みになる。それがないのが一番つらかった」
―約5か月に渡る騒動の中で村上さんの重大な決意をしていたという。次回はそれについて聞きます。(続く)