「菊とペン」(29)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎オールスター戦の思い出は…
いきなりギンギラギンの夏がやって来た。7月中に60代の後半に突入する筆者はさりげなく静かに過ごすしかない。昼日中に外をフラフラ歩いていたら体力は奪われ、熱中症は必至である。
プロ野球記者時代の「夏の思い出」とくればオールスター戦の取材だ。日本全国どこを探してもプロ野球はこの1試合のみ(当たり前だ)である。スポーツ紙はもちろん、一般紙、ラジオ、テレビ、通信社のプロ野球担当が大終結する。
現在はドーム球場が増えて取材が以前よりは楽になったようである。冷房が効いているのかいないのか、よく分からない記者席に詰め込まれる。駆け出し記者は座る席などない。
厳然と「ヒエラルキー」があって一番いい席は評論家とお付きの記者、ベテラン、そして中堅が続く。20代だった頃の私はいつも〝立見〟が指定席だった。
あっちへウロウロ、こっちをウロウロ。選手のケツを追いかける、テレビの前で選手のコメントを取る。大粒の汗があごからスコアブックに滴り落ちる。それがジワーッと広がって模様を作る。世界地図のようである。いまならオールスター戦の取材に行っただけで具合が悪くなるに違いない。
オールスター戦には数々の名勝負や記録がある。1971年、江夏豊氏の「9連続奪三振」は今後破られない記録だろう。
あれは1982年、西武球場で行われた第2戦だった。この試合でもこれから絶対に破られないであろう「珍記録」が生まれた。
大洋・斉藤明夫投手(現評論家)が「5イニング投球」を行ったのだ。斉藤氏はこの年から抑えに転向していた。就任1年目の関根潤三監督のアイデアである。
5対4。全セが1点リードの7回に登板したが同点打を許してしまう。その後、8、9回と続投する。無失点に抑えたが、全セも得点できずに9回裏を終えた。そして延長戦に突入した。現在規定では延長戦はないが、当時は認められていた。全セのベンチに投手は残っておらず、斉藤投手は続投のマウンドに立った。
当時も現在も「投手は3イニングを超えて投球することができない」とされているが、結局10、11回と5イニングも投げたのである。試合は延長11回、時間切れ引き分けに終わった。
記者席は騒然となった。社から「関根さんのコメントを取れ」の指令が来た。自宅にいた。運よくつかまえることができた。
「監督、斎藤が…」
「ええ、ちょうど車の中でラジオを聴いていましてね。10回に斉藤の名がコールされた時には心臓がドキッときて…」
全セの指揮を執っていたのは巨人・藤田監督である。関根監督も腹の中でなにか思うところがあったのだろう。リーグ戦はすぐに再開する。口調は穏やかながら言葉の端々に怒りがにじんでいた。
これからもこの「記録」は決して破られることがないだろう。昭和のおおらかな時代ではあった。私もまた汗を全身から噴き出しても平気な時代だった。
さて今年の球宴はどんなドラマを見せてくれるだろう。家でビールでも飲みながら観戦する。(了)