「100年の道のり」(54)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎猛打中島、初の三冠王
 1938年は巨人の4番打者、中島治康(はるやす)の一人舞台だった。
 ・春季=145打数50安打、1本塁打、25打点、①打率3割4分5厘
 ・秋季=155打数56安打、①10本塁打、①38打点、①打率3割6分1厘
 秋季リーグは打率、本塁打、打点とすべて1位。つまり三冠王である。プロ野球最初の快挙だった。首位打者は連続である。
 この秋季は打ちまくった。目立ったのは本塁打。初めて2ケタを記録している。それまでは春季にイーグルスのハリスが打った6本だったから、そのパワーは際立っていた。10月には5試合連続ホームランを記録した。これは1リーグ時代の唯一のことだった。
 そして1試合での固め打ちである。5安打のほか4安打が数試合あった。11月1日のセネタース戦で2本塁打を含む4安打、6打点。ここで三冠王が決まった。
 中島の三冠王は、実は2リーグになってから掘り起こされて認定された。65年に南海の野村克也が打撃三部門を制したときで、過去の記録を調べて分かった。この結果、中島が「プロ野球初」で、野村は「戦後初」「2リーグ初」となった。
 中島は本塁打のエピソードが多い。第2回マニラ遠征のとき、40年1月12日にリサール球場の左翼場外に大ホームランをかっ飛ばした。ここは多くの大リーガーが本塁打を放っており、中島は記念看板にこう記された。
 -9TH HOMERUN JAN.12 1940 T・NAKAJIMA-
 名前の「T」は、治康を「チコウ」と読んだからだった。
また、ワンバウンドを本塁打した、という話も伝わっている。
長野・松本商時代、エースとして夏の甲子園で優勝し、早大では強打を振るった。男性的な風貌で、ニックネームは“班長”。巨人のボス的存在だった。プロ野球を退くと、新聞記者としてアマチュア野球を取材した。(了)