「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(7)完「その時を語る」ー(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)

村上雅則のサンフランシスコ・ジャイアンツと南海ホークス(現ソフトバンク)との二重契約問題は1965年4月にようやく解決する。65年度はジャイアンツ、66年度以降は南海が保有権を持つことで決着した。その間、約5か月。村上はある重大な決意をしていたという。
―65年の5月4日に村上さんはジャイアンツの一員として、再渡米することになります。宙ぶらりんの立場のとき、村上さんはどんな気持ちはどうだったのですか?
村 上「実を言うともう1か月、この問題が長引いていたら、すっぱりと野球を辞めて田舎(山梨県大月市)へ帰ろうと決めていたのです。帰国して以来、トラブル続きで、精神的に本当に参ってしまってしたからです」
―辞めてどうしようと?
村 上「父親が特定郵便局長をやっていたので、その後を継ごうかと思っていました」
―引退のことは誰かに相談したのですか?
村 上「誰にも話していません。65年の5月に再渡米する前、南海の鶴岡(一人)監督と食事をしたとき、初めてその話をしました。鶴岡監督はビックリして私の顔をまじまじと見つめていました。まさかそこまで僕が深刻に悩んでいるとは、思ってもみなかったのでしょう。周囲の人に心配をかけてはいけないと、できるだけ明るく振る舞っていましたから」
―65年度はジャイアンツ、66年度以降は南海が保有権を持つとなりましたが、村上さんとしてはメジャーでもっとやりたかったのではないですか?
村 上「66年度以降は南海が保有権を持つということになっていますが、本当は私の意向が最優先だったのです。両球団の立場を考えてこうした発表になりました。ただ、私自身は、65年はジャイアンツでプレーし、その後は日本で投げる気持ちを固めていました」
―せっかくメジャーで長く投げるチャンスだったのに、なぜですか?
村 上「両親が日本でのプレーを望んでいたし、恩のある鶴岡監督が『アメリカに行かせる』という入団時の約束を守ってくれました。単なる口約束で済ませてもよかったのに、ちゃんと野球留学させてくれた。その鶴岡監督の恩に応えたかったからです」
―それにしてもよく思い切りましたね。未練はなかったのですか?
村 上「正直にいえば未練はありました。65年のシーズン終了後にジャイアンツから翌年の契約書を渡され、来年も残ってプレーしてくれと言われました。65年のシーズンオフに帰国して、ある席で『思い出のサンフランシスコ』を歌ったら、思わず涙がこぼれてきた。それを見たお世話になった人が『そんなにジャイアンツにいたいなら、もう1年やったらどうか。僕から鶴岡監督に話してあげよう』と言ってくれたのです。優しい心遣いは本当にありがたかったですが、お断りしました。これ以上、皆さんに迷惑をかけてはいけないと思っていたからです」
―村上さんは65年の5月に渡米、そのシーズンは45試合に登板、5勝1敗9セーブ、防御率3・75。長いブランクを感じさせない内容ですね。
村 上「長く実戦から遠ざかっていたので、確かに不安はありました。でも、チームメートが『おかえり』と何ごともなかったように、復帰を歓迎してくれた。半月もすると雰囲気にも慣れ、ブランクなどまったく感じなくなりました」
―村上さんが日本人初の大リーガーになってから58年。その後、多くの日本人選手が海を渡り活躍しています。今後も続く選手が出てくるでしょう。パイオニアとして何かアドバイスがありますか?
村 上「人生は一度です。メジャーでやりたいと思う選手はどんどん挑戦して欲しい。チャレンジして失敗してもいいではないですか。挑戦することが大事です。もし失敗しても、また日本に帰ってプロ野球で頑張ればいい。一度しかない人生を後悔して欲しくないです」
―長い間、ありがとうございました。(完)

【村上雅則球歴】1944年(昭和19年)山梨県大月市出身。1963年に法政ニ高から南海に入団。64年にアメリカのSF・ジャイアンツ傘下のフレズノに野球留学。9月にメジャーリーグ昇格。64、65のメジャー2年間で54試合登板し5勝1敗9セーブ、防御率3・43。66年に南海に復帰。阪神、日ハムでもプレー。プロ野球では566試合で103勝82敗30セーブ、防御率3・64。1968年に18勝4敗で最高勝率のタイトル。1982年に引退。その後、ダイエー(現ソフトバンク)、西武、日ハムで投手コーチを務める。