「菊とペン」(31)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎82年、優勝と首位打者のタイトルがかかった大洋対中日戦は迷試合に
 プロ野球の興味と言えば優勝争いとともに熾烈な個人タイトル争いだ。そのふたつが絡み合った1戦とくれば、1982(昭和57)年10月18日に横浜スタジアムで行われた大洋対中日戦だ。
いまでも思い出す。セ・リーグ390試合目の最終戦は「野武士野球」を掲げる近藤貞雄監督の中日が勝つか引き分けで8年ぶりの優勝が決定し、逆にBクラスの5位確定の大洋が勝てば藤田元司監督が指揮を執る巨人が棚ぼたでV2をさらう展開だった。
 この試合はまた大洋・長崎啓二と中日・田尾安志による、首位打者のタイトルを巡る決着戦でもあった。長崎は打率3割5分1厘として試合を欠場、田尾は前2試合に8打数6安打の固め打ちで9毛差まで接近していた。
私は大洋担当2年目で、担当記者たちの中では一番若かった。前日の17日だった。報知新聞(当時)の先輩記者が「アンケートに協力してほしい」という。「他のスポーツ紙や通信社の担当は全員答えるから」と。テーマは「巨人と中日、どちらが有利か?」というものだった。なにも考えずに即答した。「巨人有利。中日に硬さがある。投手力は大洋にまだ余力がある」。先輩はこれを聞くとニヤッと笑った。
 18日朝、報知を広げる。ゲッ。「わかりません」という答えが2人からあったが、「巨人有利」は私一人で、残り全員が「中日有利」だった。モヤモヤしながら記者席に座った。一方で、いい試合をしてくれると信じながら。
白熱した名勝負への期待はあっさり裏切られた。大洋の先発・金沢次男が1回、先頭打者の田尾に敬遠の四球である。雲行きが怪しくなる。まともな声援は消え、罵声や怒声が球場に響いた。3、4、6回にも大洋投手陣は徹底した敬遠だ。
8回、田尾が5度目の打席に立つと、辻恭彦捕手は立ち上がる。山口忠彦の初球は外角へ大きくそれた。0―3(現在は3―0)となった。中日が8点差リードの状況だ。田尾は次の球、かすりもしないクソボールを空振り、さらにもう一度バットが空を切った。三塁から左中間席に陣取った中日ファンを中心に怒号が飛び交う。いろんな物がグラウンドに投げ込まれた。ファンが乱入し警備
員が取り押さえた。試合は中断。
 もちろん、この四球攻めは関根監督の采配によるものだった。試合は中日の一方的な展開となった。中日打線は8安打8得点、小松辰雄は散発2安打の完封勝利を挙げた。三塁を踏ませなかった。大洋、投打ともに無気力に映った。おーい、白熱の試合はどこへ行った。でも、そりゃ、そうなるか…。
 長崎への前代未聞の5敬遠。この時点で1試合5四球はプロ野球タイ記録だった。田尾が1打数1安打すると、長崎は首位打者を逆転される。大洋の徹底した敬遠作戦は勝利を放棄する結果となった。長崎の首位打者と中日の優勝を引き換えにした格好となった。
 長崎対田尾の一騎打ちを期待したファンにはあまりにも残念な幕切れとなった。後味の悪さが残った。「敗退行為」として非難する声も多数上がった。関根監督は多くを語らなかったが、法政大学の後輩・長崎に首位打者を取らせたいとの親心があったのだろう。
Bクラスが確定、大洋からすれば消化試合である。3連戦は1億円興行で観客動員数も新記録を達成している。3日連続で大入り袋が配られていた。しっかり考えていれば大洋の「5連続敬遠」の下地は出来上がっていたのだ。優勝と首位打者が絡んだ一戦は名勝負になるだろう。最初から決め込んでいた落ち度である。冒頭、いまでも思い出すと記したが、40年前を振り返ってみれば青かったということだ。
 ちなみに田尾は5出塁で阪神・掛布雅之と「最多出塁数」のタイトルを232で分け合った。以後、球界の「仁義なきタイトル争い」は激化していったと思う。(了)