「100年の道のり」(64)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎ロシア革命からの逃避行
 戦前、あの沢村栄治と巨人のエースの座を争ったビクトル・スタルヒンは、数奇な運命の持ち主だった。名前の通りロシア人である。ロシアと野球? 結びつかないだろう。実は1歳のとき1917年のロシア革命に遭い、ウラル山脈からシベリアを経て北海道・旭川にたどり着き、ここで野球と出会った。
 その野球の素質が素晴らしかったことが様々な出来事に直面する原因となった。小学生時代、早くも大器の片りんを見せ、素直な性格もあって地元の人気を得た。ロシア帝国の将校だった父は喫茶店を開いていたが、事件を起こし、一家の生活に響いた。そのとき学校、地元の人たちのカンパで飢えをしのぐことができた。
高学年になると剛速球はさらに有名になり、遠征に来た選手の紹介で22年に兵庫県の甲陽学院に入学した。あこがれの甲子園球場の近くにあり、夏の甲子園大会で優勝した強豪校で、一家に自宅付きなどの待遇をして一家を迎えた。学業は優秀だったことから入学試験は難なくパスしている。
ところが他校から「野球スカウト」と指摘され、大きな問題になる前に学校から退学を求められ旭川に戻ることになった。校長は他校のやっかみに「野球がうますぎた」と。この言葉は実に暗示的だった。
 旭川中に編入し、すぐエースに。甲子園を目指していた3年生のとき、今度は大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)からスカウトされた。34年にベーブ・ルースらが来日するのに対抗するため全国の有望選手を集めていた情報にスタルヒンの名前があった。誘いは執拗で、無国籍だったことから断った場合は強制送還との恐れがあったため、甲子園出場、早大進学の夢をあきらめプロの道へ進んだ。
 大日本東京野球倶楽部がプロとして最出発して巨人となり、米国遠征へ。このときもパスポートやビザの取得で苦労した。
 巨人で42勝を挙げた39年、ノモンハン事件で日ソ関係が悪化すると、スパイ活動を警戒され、40年には名前を須田博(すた・ひろし)と変えた。さらに44年には球界から追放され軽井沢へ閉じ込められた。職が無くなったため離婚、その最初の妻は渡米し、スタルヒンと親しい男性と再婚している。
 結核が再発すると巨人から解雇。その後も弱小チームで投げ続け初の300勝を記録した。55年限りで現役を退き、指導者を希望したが、どの球団からも声がかからなかった。「ボール拾いでもいいんだ」と訴えても。それから2年後の57年1月、自動車事故で死亡。40歳の若さだった。
MVP2度をはじめ多くのタイトルがある。公式記録にはスタルヒンと須田の2つの名前が記されている。不遇の野球人だったことがそこに象徴されているといっていい。屈託のない明るい面影は殿堂入りしたレリーフで見ることができる。(続)