草薙で目撃した左右の天才打者 (寺尾皖次=テレビ東京)

 沢村栄治がベーブ・ルースから三振を奪った伝説を生んだ静岡・草薙球場。このグラウンドは戦後もプロ野球チームが春のキャンプを張り、公式戦も行われた。私はここから歩いて20分ほどのところに実家があったので、子供のころは学校の帰りにカバンを持ったまま練習を見に行ったものである。

▽バックスクリーンへ3連続打ち込んだ大下

あまりのすごさに驚いたのが東急フライヤーズ(現日本ハム)の左バッターの大下弘だった。東急vs南海ホークス(現ソフトバンク)の試合前、ホームラン競争が行われた。両チームから3人ずつ出場。南海は飯田徳治、堀井数雄、黒田一博。黒田は広島の“男気”黒田博樹の父親である。東急から大下と常見昇。もう1人は思い出せない。
 南海勢が1本ずつに終わった後、東急の一番手として登場したのが大下。初球から立て続けに3本ともバックスクリーンのわずか右へライナーでたたき込んだ。なぜ覚えているかというと、4本目がわずかに低い打球がフェンスを直撃したからである。打球がまるで生き物のように吸い込まれていく光景を見て、あっけにとられてものも言えなかった。計7本。他の東急選手は2人ともゼロ。群を抜く打撃だった。
 大下は「天才」と呼ばれた。それを私は目の当たりにしたのである。戦後の球界を引っ張った功労者としても知られ、巨人の川上哲治の「赤バットの打撃の神様」に対し、大下は「青バットの天才打者」としてホームランをかっ飛ばし、野球少年のアイドルとなった。

▽万年筆でボールにサインした別当

右打者の天才、と思うのが別当薫である。1リーグ時代最後の1959年、別当が所属する阪神タイガースが草薙で中日ドラゴンズと試合をした。当時の阪神は“ダイナマイト打線”の異名を持つ強力打線が看板で、別当は藤村冨美男と並ぶ打の中心だった。
 別当の一打が強烈に印象に残っている。左中間への低いライナーがグンと伸びてそのまま外野スタンドに突き刺さった。試合の詳細は忘れてしまったが、このホームランだけはいまだに鮮明に覚えている。
 試合後、一人のファンが阪神の帰りのバスまでやってきて、別当に「ホームランボールです。サインして下さい」とボールを差し出した。丁寧にサインした別当の筆記具を見ると、万年筆だった。スラスラと書いた別当のスマートさも思い出になっている。
 私のテレビ東京時代、70年の巨人vsロッテ第3戦(東京球場)を中継した。延長で巨人の長嶋茂雄が決勝ホームランを放ったのだが、その一撃は別当の“草薙の一撃”の再現に見えた。試合後、ロッテの永田雅一オーナーいわく「巨人は新人でも敬遠して勝負を避けるのに、なんで長嶋を敬遠しないのだ」
 大下は西鉄ライオンズに移り、黄金時代の礎を築いた。別当もまた毎日オリオンズへ移籍し、最初の日本シリーズ優勝に貢献した。球史に残る左右の天才打者を私は目撃した。大下、別当のホームランをしかと見たのである。貴重な体験と思う。野球史の証言者の一人と自負している。(了)