第4回 球史最大の遺恨試合(1)(菅谷 齊=共同通信)

警察の装甲車が出動したほどの遺恨試合があった。1973-74年(昭和48-49年)の2シーズンにまたがって荒っぽい戦い演じたロッテ・オリオンズと太平洋ライオンズである。両軍の監督はともに球史に残る投手で、“黄金の左腕”金田正一と“神様仏様稲尾様”の稲尾和久。舞台はすでに姿を消した川崎球場と平和台球場だった。私はそのすべてを見た。

▽ブロック、体当たり、乱闘、

74年4月27日、土曜日。ロッテ・オリオンズが太平洋ライオンズを迎えての一戦は注目の試合とあって、川崎球場に2万5000人のファンが詰めかけた。想像を超える人気だった。
 当時のパ・リーグは前後期の2シーズン制。短期とあってどのチームにも優勝のチャンスがあった。このとき、ロッテ、太平洋ともにいい順位にいた。
 熱戦が一つのプレーでがらりと変わった。
 4回裏、ロッテは一死三塁。ここで投手の成田文男が左翼へ飛球を放った。左翼手の東田正義が捕球すると同時に、三塁走者の弘田澄雄がタッチアップして本塁へ向かった。
 弘田が走り抜けようとしてホームベースを踏もうとした瞬間、捕手の宮寺勝利が左足を上げた。それにぶつかった弘田は吹っ飛び、一回転して落ちた。主審は「セーフ」とジャッジしたが、左翼からの送球を捕った宮寺はベースを踏んでいないと見て弘田にタッチした。
 そのとき、一塁ベースコーチにいたロッテ監督の金田正一が全力で突進してくると、宮寺の胸に右肩から体当たりした。この直後、三塁手のドン・ビュフォードが走って飛びつくと左腕で金田の首を巻き、あっという間に倒した。両軍ベンチから選手が出てきて乱闘騒ぎとなった。
 本塁の上に横たわった金田はスパイクで蹴られ、起き上がった時は口元が血で赤くなっていた。すごい形相だった。

▽警察官が制止、真っ向対決の両軍監督

この乱闘がいかに異常だったかは、すぐ20人ほどの警察官がグラウンドに駆けつけたことでもわかる。大リーグの乱闘を見るようだった。警察官が両軍選手を分け、ベンチに下がらせた。グラウンドから選手の姿が消えた。
 しかし、金田は興奮が収まらなかった。試合中断のなか、何度も太平洋ベンチに向かおうとした。そのたびに審判たちが体を押さえて止めた。
 川崎球場は狭い。ネット裏の記者席からホームベースまで十数㍍しかない。記者席の正面に座っていた私は、まさに目の前で出来事を見た。プロ野球選手たちのケンカはすごい。これまで何度か乱闘らしき騒ぎは見たが、ほとんどは形だけだったが、このときはすさまじかった。蹴り合い、殴り合い、怒声・・・。本気でぶつかっていた。
 審判から乱闘の処分が出た。
 「金田監督とビュフォードを退場処分とする」
 この結果に金田がかみついた。
 「宮寺はどうなんだ。退場だろっ」
 主審は説明した。
 「宮寺は走塁妨害のペナルティです。だから走者はホームインとします」
 満員の観客の前での乱闘事件。殺気だったグラウンドは、次の大騒動を呼んだ。(続)