「ONの尽瘁(じんすい)」(30)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

まさに「名選手は名監督たり得るか?」が問われるシーズンだった。巨人監督就任以来3年間リーグ優勝から遠ざかる王貞治にとって背水イヤーとなった1987(昭62)年。指揮官としてこれ以上の優勝の空位は現役時に樹立した栄光に影を落としかねない危機でもあった。王個人にとっても、常勝を宿命付けられた巨人という組織にとっても…。
対策として、王は選手とのコミュニケーションを密にすることから手がけた。練習中の声掛けはもちろん、試合後のマッサージ室での一言、二言にいたるまで会話を持ちかけた。選手起用といった戦略面でも、まず担当コーチの意見を採り入れたこれまでとは異なり、みずからの判断を優先させた。それも、ただ厳しく臨むだけではなく、選手の個性に応じて温情を加味したり、奮起をかき立てさせたりと、きめ細やかな対応が取られた。
王のチーム改革は即効性を伴って結果に現れた。開幕から15戦を10勝2敗3分けで駆け抜けた。就任1年目(84年)が3勝9敗3分け、2年目7勝8敗、3年目8勝7敗だったことからも、その変貌ぶりは一目瞭然だった。
王流の選手管理術とは?ベテランといえど、厳しさで容赦はしなかった。江川卓への取り組みにそれは顕著に現れた。
7月7~9日の「札幌シリーズ」でのことだった。広島との3連戦。戦前の先発ローテ予想は桑田真澄、江川、宮本和知の順だった。ところが、初戦が雨中止となりローテの再編をしいられた。ここで、王は「大なた」を振るう。エース格の江川の先発を飛ばし、初戦を桑田、2戦目を宮本としたのだ。
雨で試合が流れても「エース」のスライド登板が一般的だった時代。なおさら肩痛との闘いもあって全盛期に比べて力の衰えはあったにせよ、エースとして君臨し続ける男へのこの措置はやはり反響が大きく、翌日はスポーツ全6紙ともに「江川のエース権はく奪!」の見出しで1面報道する騒ぎとなった。江川は「投げろと言われたところで投げるだけ」としか話さなかった。
別の日、江川は若手の先発をカモフラージュするための「ダミー役」もやらされた。先発投手は試合前の練習をいち早く切り上げトレーナーから入念なマッサージを受け、食事などを済ませ試合に備える慣例があった。その日は江川が真っ先にベンチに引き揚げてきたことで先発と思われたが、実際の先発は、別の若手だった。この役目は、およそエースが任されるものではなく、江川にすればプライドを切り崩されたに違いなかった。
珍しい戦略も見られた。4月28日の中日戦で6-4の9回、王は既に2イニングを投げていた鹿取義隆が先頭打者に左のゲーリーを迎えた段階で、角三男にスイッチした。驚かされたのは、鹿取をそのままライトの守備位置に就かせたことだ。こうした高校野球での定番戦法は90年代にヤクルトや阪神の監督に就任した野村克也がよく用いたが、王が行うのは異例といえた。
角のワンポイントが奏功すると、鹿取は再度マンドへ。後続の落合、宇野を簡単に抑え勝ち投手となった。王の鹿取への信頼度は、ストッパー2年目のサンチェの不調もありこのシーズンにピークを迎えた。むろん、前年多用した角→鹿取→サンチェの「3段締め」も随所に織り込みながらも、鹿取の重用ぶり(63試合登板で7勝18S。角は57試合で2勝1S、サンチェは39試合で9S)は、より顕著となった。
選手に奮起を促す起用もあった。4月30日の中日戦で6回途中4失点KOされ2軍調整を命じた槙原寬己を抹消期間(当時14日間)が過ぎると即1軍に呼び戻し、5月15日の広島戦で先発、初勝利につなげさせた。
王はこうした起用に関して言う。「やっぱりタイミングだね。われわれの仕事は選手のもてる力を引き出すこと。そのタイミングは、熱の冷めていないときが一番なんだ」。今までにない「色」を絞り出しながら、快進撃を続けた王巨人。選手起用の妙は、まだ、ほかにも見受けられた。(続)

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