第12回 内々に進んだプロ野球への移行(菅谷 齊=共同通信¬)
▽全日本チーム初の紅白試合
第2回日米野球の機運は盛り上がり、日本の選手たちも日増しに興奮を高めていた。
そんな折り、日米野球の応援歌が生まれた。「日米野球戦 日本選手応援歌」というタイトルで、時代を背景にした意気と主催者の意気込みが感じられる。みんな燃えていたのだろう。
作詞 西条 八十
作曲 堀内 敬三
歌 藤山 一郎
超一流トリオである。日米野球が始まるほんの前、1934年10月のことだった。
10月末、千葉県谷津で全日本チームの紅白戦が行われ、調整は最終段階に入った。
紅軍 5新富卯三郎 6苅田久徳 4三原脩 8ジミー堀尾 3永沢富士雄
9矢島粂安 7中島治康 2伊原徳栄 1武田可一
白軍 8二出川延明 9杉田屋守 3井野川利春 7李栄敏 5倉信雄
4山本栄一郎 6江口行雄 2久慈次郎 1沢村栄治
注目は白軍のバッテリー、沢村―久慈だった。高校生と社会人NO1である。沢村は評判通りのピッチングを見せ、3-1で勝った。
▽プロ野球チーム発足は日米野球終了後に
ベーブ・ルースを迎える日米野球の準備が進む中で、正力松太郎はプロ野球発足の支度にとりかかっていた。
球団(会社)の発足に向け、財界人らと会合を重ねていた。
「資本金50万円」
当時としては高額だったが、安定と安心感を与えるものとして、意識的に大きな数字にしたという。
援助するメンバーには、のちに政界に出た藤山愛一郎や歌舞伎の尾上菊五郎、作家の菊池寛などの名前がある。世間に対する信用度が高まったことは間違いない。
ただ、このような事実は公表しなかった。
プロ化の動きを内々に進めていた大きな理由の一つに、日米野球のメーン球場として使う神宮球場の存在があった。
いうまでもなく神宮球場は明治天皇の名が冠せられている。日米野球が始まる前にプロ化の話が明らかになった場合、思わぬ事態を起こすことを避けようという配慮があった。
全日本チームはアマチュアとして試合に臨むことにした。
これは神宮外苑の意向に沿ったもので、正力は日米野球が終えるまでプロ化を伏せることにした。世間を刺激しないように、という慎重な姿勢なのだが、戦前の雰囲気を感じ取れるエピソードといえよう。(続)