「オリンピックと野球」(6)-(露久保孝一=産経)

◎消えた「神様、仏様、稲尾様」

 4月3日午後、ひとりの男が右肘治療のため、大分県別府温泉に向かった。約2週間の予定で訪れる先は、電気治療院だった。その男、稲尾和久は固い表情だった。
 福岡で西鉄の中西太監督は、
 「焦らず、ゆっくり治療することが最上の道だ」
 と送りだした。もともと冗談好きの稲尾だけに「もう先がみえてきたよ」との気持ちとは逆の表情を浮かべたが、肘の痛みよ消えてくれとの思いでいっぱいだった。
 オリンピック開幕を秋に控えた1964年(昭和39)が始まり、稲尾はキャンプからオープン戦、さらに公式戦と懸命に調整に励んだ。しかし、投球は完全に戻らず、開幕から1カ月がすぎて肘痛がひどくなり別府行きとなったのである。

▽稲尾よ、早く戻って勝ってくれ!

 「稲尾のいない西鉄なんか考えられない」
 西鉄ファンにとって、超人稲尾の復帰ほど待ち遠しかったことはない。稲尾は、どこで肩と肘に変調をきたしたのか。
 その原因のひとつに、カゼを引いて体調を崩した前年12月の欧州旅行にあったと見る記者もいた。
 長嶋茂雄、王貞治、野村克也とともに日本を出発したときは平熱だったが、ローマからスイスに入ったときには39度に上がった。それから3日間は一歩も外に出られず、体の変化を感じて帰国した。
 その後、肘と肩が痛み出し、年が明けても回復しなかった。 
 稲尾は、それまでの登板過多による「酷使」がたたり、カゼによる影響も加わって、投手の生命である肩と肘に異常が起きたといわれた。絶妙のコントロールもスピードも欠いたまま3月の開幕に突入した。
 稲尾は前年まで8年連続で20勝以上をあげている。61年(昭和36)にはプロ史上最多の42勝をあげた。58年(昭和33)には、巨人との日本シリーズで7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投という凄まじさ。うち5試合に先発し4完投。苦投から始まり、途中からの力投、熱投、激投の右腕が日本一を呼び込んだ。
 そんなヒーローに野球ファンは、
 「神様、仏様、稲尾様」
 と拍手を送り、崇めた。その神的英雄が、オリンピックの年に大きな危機を迎えてしまった。

▽鉄腕である限り「投げられればありがたい」

 稲尾は3月に3度登板したが勝てない。5月に2度、7月15日南海戦に先発して負け投手になった。これがこの年、最後の登板となった。1勝もできずに、シーズンを終えた。黙々と練習で走り続け、温泉に行っては治療を繰り返す1年だった。
 肘、肩を故障して投手生命を終える投手は、いつの時代にも数多く存在する。稲尾が痛めた原因は、本当は何だったのか? 投げ過ぎといえば、それは一理あるが、稲尾はその声に反発するかのように、
 「僕は投げられればありがたい」
 と声を高めた。彼は「鉄腕」だった。鉄腕であるがゆえに、肘、肩痛の理由はあえて言わなかったのである。
 この年、西鉄だけでなく、ファンは誰しも「神様、仏様、稲尾様」の晴れ姿をどれほど待ち望んだか。声援を送ってくれるファンのために、本人も応えたかった。が、できなかった。その無念を、65年6月に勝利をあげて晴らした。それまで約2年もかかった。サイちゃん(稲尾のニックネーム)が冗談ではなく、心底から笑った。(続)