「オリンピックと野球」(11)-(露久保孝一=産経)
◎敵は本能寺・・・関西決戦制した鶴岡一人の葛藤
昭和30(1955)年代から40年代にかけ、名監督といえば、まず、西鉄・三原脩、南海・鶴岡一人、阪神・藤本定義、巨人の水原茂と川上哲治、阪急の西本幸雄らの名があげられる。
そのなかで、1964年の東京オリンピックの年に日本シリーズで優勝した監督は、南海ホークス(現福岡ソフトバンク)を率いた鶴岡だった。
この年は、南海-阪神の「関西決戦」となり、激闘を繰り広げた(関西決戦の模様はこの連載の2回目に書いている)。
戦いは、藤本監督の阪神が3勝2敗とし、「あと1勝」で優勝という有利な展開だった。ところが、第6戦が雨で順延となり、阪神のリズムは狂い、南海が残り連勝してシリーズ制覇した。
宙に舞う背番号30の鶴岡の顔から感激の笑みがこぼれた。鶴岡は第7戦で完封したスタンカ、1回に先制のホームを踏んだ広瀬叔功(よしのり)、2点目をたたき出した四番・野村克也らナインの労をねぎらった。
しかし、頂点に立っても、鶴岡のどこかに違和感があった。
▽明けても暮れても巨人を倒すために
「日本一でも万々歳ではない。本当の敵は、別のところにいる」
鶴岡は、巨人のことを思い浮かべた。この年、巨人はリーグ3位に低迷し、鶴岡の南海とは勢いがまるで違った。それでも、巨人の「強さ」は消えていない、と鶴岡は感じていた。
思えば、それまで巨人とは1951年を皮切りに、52年、53年、55年、と4度も日本シリーズで対戦して一度も勝てなかった。投打に一流選手をそろえた巨人の圧倒的な強さに、南海は歯が立たなかった。自分自身は屈辱感に胸を締め付けられた。が、世間はそうではなかった。
「あの強い巨人に負けたのだから、仕方ない」
その言葉で、片づけられた。鶴岡は、空しかった。鶴岡としては、南海が戦ったことを話して欲しかった、拙かったにしろ自分の采配を責めてもらいたかったのだ。しかし、周囲もファンも、ただ強い巨人のことを話題にし、相手の南海を無視した。
「それなら、巨人を倒すしかない」
鶴岡は、打倒巨人の鬼と化した。パ・リーグにあって、巨人と戦うには日本シリーズに出るしかない。明けても暮れても、巨人を倒すことだけを考えて野球をやった。野球だけに熱が入り過ぎ、家庭を顧みないという批判も浴びた。その執念が実って、59年のシリーズで巨人に4連勝して日本一に輝いた。「涙の御堂筋パレード」と報じられた。
▽敵は、やはりパ・リーグのなかにある
あれから5年たち、今度は阪神を倒して2度目の日本の頂点に立った。鶴岡は、巨人をもう一度倒して、南海の存在を認めてもらいたかったのだ。その巨人は、いなかった。鶴岡には、阪神との決戦を終えてしばらくすると、対巨人一辺倒の考え方に違和感が出てきた。
強いチームを倒すのは、我々の務めだが、日本シリーズだけが野球ではない。南海はパ・リーグのチームだ。必死で長い戦いをするリーグを忘れていけない。巨人を忘れることはできないが、パ・リーグはもっと忘れてはいけない。本当の敵は、やはりリーグのなかにいる…。
当時の記者は、そんな鶴岡の心境の変化を感じ取った。監督として通算23年、リーグ優勝9回、史上最多の1773勝をあげた鶴岡は、多くの大記録を残した。日本一2度目の裏には、名将のいつにない精神的な葛藤があり、新たな収穫もあったのである。(続)