「100年の道のり」(36)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎テキサス州まで遠征、沢村は11勝
 巨人は第2回米国遠征に向かった。1936年(昭和11年)2月半ばのことである。
 1月14日に静岡市に集合し、キャンプは翌日から2月11日まで練習と試合を行い、渡米に備えた。この期間の狙いは、走力をつけ、肩を強くし、バットスイングの力を増す、というものだった。
 秩父丸に乗船し、横浜港を発ったのは、キャンプインから1か月後のことだった。向かうはサンフランシスコである。
 メンバーは次の通り。
▽監督=浅沼誉夫
 ▽GM=安楽兼直
 ▽主将=津田四郎(内野手)
▽投手=青柴憲一、沢村栄治、畑福俊英、ビクトル・スタルヒン
▽捕手=倉信雄、中山武、内堀保
 ▽内野手=永沢富士雄、白石敏男、田部武雄、水原茂、筒井修
 ▽外野手=山本栄一郎、中島治康、林清一
 ベーブ・ルースを来日した時に力を発揮した鈴木惣太郎は先乗りして迎える準備をしていた。三原脩、苅田久徳は参加していない。
 今回は中西部まで足を延ばした。カリフォルニア州からスタートし、アリゾナ州を経てテキサス州、オクラホマ州。その後、ユタ州からアイダホ州、オレゴン州、西海岸のワシントン州。そしてカナダで終えた。
 73試合を行い、42勝32敗1分け。勝率5割8分8厘だった。
 内容を見ると、大リーグ傘下のパシフィック・コーストリーグのチームとは4勝12敗、その下部とは4勝9敗と、プロに歯が立たなかった。
 投手陣の成績は平均していた。
 ▽畑福11勝9敗
▽沢村11勝11敗
 ▽青柴10勝4敗
 ▽スタルヒン9勝7敗
 打者では中島が2割8分1厘でトップ。この遠征で速球の打ち方を学び、日本初の三冠王の基礎を作った。
 守備では水原の緩いゴロの処理が評判となった。慶大時代のプレーは健在だった。遊撃の白石も目立った。
この遠征中、日本では巨人の監督交代が起きていた。(了)