「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(2) 「その時を語る」-(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)

複数球団からのプロ入り勧誘も進学希望で拒否。それが南海・鶴岡監督のひと言で態度を一変させた。
―アメリカへの野球留学にはどんな経緯があったのですか? 
村 上「法政二高の3年生(1962年)のとき、いくつかのプロ野球チームから入団の誘いがありました。私は進学希望でプロ野球に行く気持ちはなかった。8月に南海(現ソフトバンク)の鶴岡(一人)監督がわざわざ山梨の大月の実家に来てくれましたが、『プロには行きません』とお断りし、両親も反対でした。それが帰り際に鶴岡監督が『村上君、南海に入団すればアメリカに野球留学させてやる』と言ったのです。『エッ、アメリカ!』とその言葉に気持ちがぐらついた。当時、テレビで”ローハイド”というアメリカの西武劇の番組が人気でよく見ていた。アメリカに憧れがあったし、滅多なことでは行けない時代です。野球留学よりアメリカに惹かれて入団したようなものです(笑い)」
―1年目は村上さんではなく他の選手が行きましたね。
村 上「1年目は同期入団の林俊彦(中京商)が野球留学し、私は行く予定はなかった。左ひじを痛めていた。それでもオープン戦には帯同。巨人戦でも登板した。長嶋さんを2ストライク1ボールからアウトコースのカーブで見逃し三振に取ったと思ったら『ボール』の判定。次の王さんに同じコースに投げたら『ストライク』。噂に聞いていた長嶋ボールってあるのだな、と思った。2年目になっても話がなく、諦めかけていたら、キャンプ中の2月半ばにアメリカ行きが決まり、3月に渡米。サンフランシスコ・ジャイアンツの1Aのフレズノ・ジャイアンツに所属した。鶴岡監督は約束を守ってくれたとうれしかったです。新人の高橋博捕手(宮崎商)、田中達彦内野手(銚子商)と一緒でした」
―当時の報道をみると期間は村上さんだけが3か月、他の2人は1年になっていますね。
村 上「当時の南海は左投手が不足していた。ひじもよくなり、ピッチングの調子もよかったので、球団としては僕だけ早めに帰国させて、公式戦で投げさせようと考えていたようです」
―キャンプ、試合を通じて1Aのレベルはどうでしたか?
村 上「日本の二軍と同レベルか少し劣るかな、という感じでした。キャンプにはメキシコ、ベネズエラ、キュ―バ、プエルトリコ、ドミニカなど中南米の選手がたくさん来ていた。着のみ着のままのような選手もいて、ホットドッグ1個と水だけで必死に練習に取り組んでいた。当時、1Aと2Aはホットドッグリーグ、3Aはハンバーガーリーグ、メジャーはステーキリーグと言われていた。朝、起きるとそんな選手のうち何人かがいなくなる。日本のプロ野球を見慣れている私には想像を超える世界でしたね」
―村上さんは主にリリーフとして登板していますね。
村 上「当時の私の球種はストレートとカーブ。シュートも投げました。コントロールには自信があったし、カーブが効果的だった。1Aでは106イニングを投げましたが、三振を159個奪っています」
―生活、待遇はどんなものでしたか?
村 上「フレズノは日系人が多く住む町で、佐伯さんという方の家に下宿させてもらいました。食費は負担しましたが、家賃はゼロ。本当に助かりました。フレズノでの月給は400ドル。遠征の時は1日3ドルのミールマネー(食費)が支給された。遠征先ではホットドッグやハンバーガー、飲み物を買いお腹を満たして試合をしたものです」
―6月に帰国のはずが延期になったのはなぜですか?
村 上「私は6月に帰国するものだと思って、日本へのお土産も買って帰国の準備をしていた。それがチームから突然『マッシー(村上)は貴重な戦力。帰すわけにはいかない』『1年間プレーしないといけない。契約書もある』と言われた。確か5月下旬のことでした」
―驚いたでしょうね。
村 上「日本を出発するときに球団から、何かあればアメリカにいるキャピー原田さん(日米球界の橋渡しをした日系アメリカ人)に相談しろ、と言われていた。早速、連絡すると『悪いようにはしないから、そのままピッチングを続けろ』と。南海からは何も言ってこないし、私も残りたい気持ちが強くなっていたので、そのままアメリカでプレーした」
―南海の方針が変わったのですか?
村 上「その年、南海はシーズン途中から調子を上げ(最終的に2位阪急・現オリックスに3ゲーム差でリーグ優勝)、投手陣もスタンカ、杉浦(忠)さん、皆川(睦男)さん、三浦(清弘)さん、森中(千香良)さん、林俊彦などがいて充実していた。村上を日本に帰しても出番がないだろうと考えたようです」
―帰国せずに残ったことが大リーグ昇格につながったのですね。(続)