「菊とペン」(32)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎「サインはダメです」で思い出したこと
 現役記者時代、特に巨人担当だった時、イヤだったのは知人、会社の関係者から「サインをもらってほしい」という依頼だった。頼む方は気楽なものだが、もらう立場としては気分的に良くない。
 わかっちゃいるのだが、最近久々にロッテ・佐々木朗希投手のサインを頼まれた。人生の先輩である。断れない人である。
こちらは引退した身だ。先輩面して会社のロッテ担当に頼んだ。佐々木とはいえ、サインの1枚くらいなんとかなるだろう。気楽に電話をした。 だが、私がデスク時代に指導した後輩記者の反応は鈍かった。いや悪かった。
「エッ、佐々木のサインですか?、まあ、聞いてみますが…」
何を格好つけている。そういえば以前からこうだった。
「なるだけ早くもらってほしい。(サインが)取れたら電話をくれ。首を長く
して待っているよ」
 最後に「今度会ったら一杯飲ませるからな」とダメを押した。
 ところが、待てど暮らせど後輩から電話がない。しびれを切らした。「まさか忘れているのでは」と催促の電話をした。
 「実は(広報に)頼んだのですが、断られまして」
という。佐々木は金の卵である。取材に関して様々な規制がかかるのは理解できるところだが、広報経由でのお願いでもお断りとなると諦めるしかない。この種の依頼は断っているらしい。特別扱いはできないということだ。仕方が
ない。それにまだ事情があるようだ。
 ロッテはファンサービスに熱心で、私が担当記者時代もロッテ浦和球場でよく選手の即席サイン会を行っていた。様子を眺めていると、一度もらっているのに並び直してまたもらっているファンが実に多かった。2枚も3枚ももらってどうするのだろう。素朴な疑問はすぐに氷解した。
 ロッテ関係者いわく、
「ネットに上げて売るんですよ」
地方・遠方のロッテファンはサイン会があることは知っていてもそうそう浦和まで来ることはできない。結構需要があるそうでそれなりに値段もついている。
だが、サインをした選手にすれば心外である。面白くないだろう。ファンサー
ビスが仇になっている。ましてや今後どれほどの活躍が見込めるか分からない佐々木のサインである。球団が神経を尖らせるのは当然だが、時代も変わった
なという感を強くした。
 王貞治監督時代、巨人の選手は頼めば気楽にサインをしてくれた。王さん自身が絶対にサインを断らなかった。多摩川の練習後、何十人ものファンが王さ
んを取り囲んだが、日が暮れて暗くなるまでペンを走らせた。取材は即席サイン会が終わってからである。1、2時間はざらだ。中には紙切れや画用紙を差し出す子供もいた。それでもイヤな顔1つせずに「一人1枚だよ」と優しく声を掛けながら丁寧に書いていたものだ。並び直す子供はいなかった。
 一度、王さんが「オレのサインは世界で一番価値がないかもな」と話したことがある。だが、これは「みんな平等に」という王さんの信念の実践であり誇りだったと思う。もらったサインはいつまでも大事にしたい。ましてや人に譲るなんてできない。いまでも私の部屋には王さんからいただいたサインが飾ってある。
 サイン一つとっても、「昭和は遠くなりにけり」。残暑に思った。後輩よ、ご苦労さんでした。(了)