◎昭和生まれの明治男ー(菅谷 齊=共同通信)

 一本気、剛毅…プロ野球選手の今では数少ないタイプだった村田兆治。男っ気むき出しのピッチングを応援、支持するファンは多かった。2022年11月11日、その200勝投手が亡くなった。73歳の誕生日まであと2週間ほど前だった。「信じられない」という仲間の声が相次いだ。
 強烈な思い出として残る試合がある。1974年、パ・リーグが前後期の2シーズン戦を採用して2年目で、村田の所属するロッテは後期を制し、プレーオフ(5試合制)で前期1位の阪急とリーグ優勝をかけて対戦した。
 西宮での第1、2戦にロッテが連勝。第3戦はロッテがホームグラウンドとしていた仙台だった。
 その試合前、阪急の西本幸雄監督が本音をもらした。
 「稲尾や杉浦が欲しいで。あの二人なら逆転できるかも知れんから」
 第3戦のロッテは村田の先発で、西本監督は得点するのが厳しいと読んでおり、1点勝負で自軍の投手が完封すれば、という意味だった。かつて西鉄の稲尾和久、南海の杉浦忠が4連投4勝したことを引き合いに出したのである。
 先発した村田は西本監督が恐れた通りシャットアウト(4-0)した。真っ向から剛速球とフォークボールを投げ込んだ。ロッテは日本シリーズに進出し、中日に4勝2敗でかった。監督の金田正一が宙に舞った。
 このころのロッテは成田文男、木樽正明といった20勝投手に陰りが見え始めた時期で、村田は彼らの後継として出てきた。長い腕、ダイナミックなフォーム。76年に21勝を挙げて素質が完全開花し、それから“マサカリ投法”と呼ばれた。“サンデー兆治”は右ヒジ手術(トミー・ジョン手術)の後、カムバックして日曜日に登板して復活したからだった。
 人物の評としては夫人が付けてという“昭和生まれの明治男”が有名になったが、見事に言い当てている。野球にすべてをかけていた姿が目に浮かぶ。こと野球に関しての軽口はタブーだった。
 平成、令和と時が移り、プロ野球選手はやさしく、やわらかく、何事にも順応性が高くなった。村田のような一徹な一流はいなくなったように見える。マウンドの上で生涯を終えてもいい、と心に決めていたことだろう。そういう野球人だった。(菅谷 齊=共同通信)