「100年の道のり」(59)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎9年間で休止符
 「わが国初めての高度野球として全国的に馴染み深い日本野球報国会では、切迫する時局にかんがみ、参加チームの総力をあげて戦力増強に資するため、野球を一時休止することに決定、13日声明を行った。これで昭和11年連盟(報国会の前称)結成以来、9年間に渡って洲崎、上井草、後楽園、甲子園、西宮の5球場を賑わせた日本野球も、ここに休止符をうったわけである」
 これは1944年(昭和19年)11月14日付けの読売新聞の記事である。太平洋戦争の情勢がただならぬ状況に追い込まれていることがよく分かる。
 後楽園球場のスタンドには高射砲陣地が設けられ、機関砲が据え付けられて並んだ。グラウンドは野菜畑に姿を変えていた。
 各チームとも主力選手が次々と召集を受けて戦地に向かっていた。中には自ら兵役を志願する選手も出た。巨人のホームラン王として人気のあった青田昇はその代表で、航空特別幹部候補生を志願している。
 この19年は4月3日の神武天皇祭の日に春季リーグが開幕した。試合は土、日、祭日に限られ、巨人と阪神が同率首位となった。
夏季リーグは阪神が8割台の勝率で優勝した。
秋季リーグになると、選手不足からチーム単独では編成できなくなった。6球団が試合を続けていたが、とうとう混成チームでしのぐという状態だった。巨人・朝日、阪神・産業、阪急・近畿の3チームが9月に総進軍大会と銘打った大会を行った。
戦前最後のリーグ戦(西宮)の成績は次の通り。
9月24日 巨・朝7-3急・近 神・産14-0急・近
  25日 急・近6-2巨・朝 神・産3-2巨・朝
  26日 急・近10-6神・産 神・産8-9巨・朝
 甲子園大会、東京大会、西宮大会を開催し、26日を最後に6球団の最高責任者の申し合わせで休止が決まった。巨人の正力松太郎、朝日の田村駒治郎らである。
 ただし、この時点での関西は、東京ほど空襲を受けておらず、試合を行ってもよい、との判断をしている。(続)