「100年の道のり」(60)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎球史から消えた正月大会
 プロ野球が太平洋戦争のため休止になったのは1944年のことである。公には秋季リーグが戦前最後の試合となったが、実は翌45年1月に関西で試合が行われていた。元旦から5日まで甲子園球場と西宮球場を使用した。
 4チームの選手が参加したものの、1チームでは選手が足りないので2チームずつ合同で編成した。阪神と産業が「猛虎」と名乗り、阪急と朝日で「隼」とした。試合は奇数日を甲子園球場で、偶数日を西宮球場で行い、連日ダブルヘッダーだった。少ないファンが観戦に来た。
 「猛虎」には投手の若林忠志、呉昌征、野手に藤村富美男、本堂保次、金山次郎、金田正泰ら13人。「隼」は投手の野口明、野手に酒沢政夫、坪内道典、西村正夫ら14人。いずれも戦後のプロ野球の発展に貢献する選手たちである。
若林は“七色の変化球”の異名を持ち、毎日に移籍すると日本シリーズの勝利投手第1号(50年)となった。呉は投手としてノーヒットノーラン、打者として首位打者と二刀流で売り、そのタフガイぶりから“人間機関車”と呼ばれた。藤村は“物干しざお”の呼び名で知られたホームラン王である。金山は盗塁王となり、金田は首位打者となった。坪内は最初に通算1000安打を記録した安打製造機だった。
 1日=猛虎9-3隼 猛虎8-3隼
 2日=猛虎12―3隼 猛虎6-1
 3日=5回中止
 4日=隼3-2猛虎 猛虎6-1隼
 5日=猛虎6-3隼 猛虎9-2隼
 猛虎7勝、隼1勝だった。3日の中止は、第1試合の途中で“空襲警報”があったからで、猛虎リードのまま終わった。5日の試合が戦前のプロ野球の最後の試合となった。
 この正月大会は野球史から消えていた。出版された、いわゆる野球史にはほとんど載っていない。公式戦ではない、という理由なのだろうが、プロ野球の試合には変わりなかった。阪神の球団史はこの大会を紹介しているが、同時に「フリーライターが発掘した大会」と付け加えている。
 試合はそれから10日後ぐらいにも予定していたが、空襲のため中止になった。戦火が全国に広がっていくのだった。
 甲子園球場はやがてイモ畑になった。
 東京は3月大空襲に遭うなど野球どころではなかった。そして戦地に行ったプロ野球選手の悲報が相次ぐのである。(続)