「評伝」「稀代のホームランアーティスト」門田 博光-(荻野 通久=日刊ゲンダイ)
567本塁打(歴代3位)、1678打点(同3位)、2566安打(同4位)の通算記録を残して、2023年1月24日に74歳で亡くなった門田博光は「こだわり」の打者だった。
天理高からクラレ岡山を経て南海(現ソフトバンク)入りした1970年、門田はオープン戦の試合前、野村克也監督(当時)にこう言ったという。
「ヒットならなんぼでも打ちまっせ」。
その試合から門田は4試合連続安打。ところが5試合目に無安打に終わると、野村監督は門田をスタメンから外した。それでもその後、代打で5試合連続安打。一軍に残った。入団時の門田はプロとして体も小柄(170㌢)。高校時代は本塁打0。パワーヒッターではなく、俊足、強肩のヒットメーカーだった。
それがホームランバッターになったのはなぜか。かつて本人に聞くとこう答えた。
「試合の勝敗に関係なく、球場の視線を一瞬、僕に集中させることができる」
ホームランを打つため、まず門田が取り組んだのがバットだった。飛距離を出すために1㌔の重いバットに替えた。門田を含め、当時、選手が使っていたバットは900㌘前半がほとんど。1㌔のバットといえば練習で使うマスコットバットくらいだ。
体格に恵まれない門田が1㌔のバットを振り切るのは容易ではない。門田は腹筋、背筋を強化。最後はそれぞれ200回を毎日のノルマとした。「1㌔のバットを手で振ったら手首を痛める。手ではなく腰で振る」ためだった。
打撃のスタンスもスクエアからクローズに替えた。打席では右足を上げる一本足で立ち、クローズに構えてテークバックで体をねじる。上半身をこれ以上、苦しくてねじれなくなるまでねじる。その限界から体勢を解き放ち、反発を利用してボールを飛ばすのである。ある試合で門田は腸がねじれ、打席で吐き気を催したこともあったそうだ。
ひところ飛ぶボール、飛ばないボールが話題になったことがある。その時、門田はこう思ったという。
「飛ぶボール?飛ばないボール?何、言うてんの。ボールは飛ばすもんや」
そんな門田の本塁打へのこだわりを象徴するのがルーキー野茂英雄との対決だ。89年のドラフトで8球団が競合した野茂は近鉄(現オリックス)に入団した。
鳴り物入りでプロ入りした新人に、門田はプロ第1号を浴びせる決意をする。シーズンオフに入ると、毎朝5時半に起床、6時から自宅近くのゴルフ場を走った。雨の日も風の日も、アップダウンのある18ホール(約7㌔)を走り込む。体力とバットスピード、そしてここ一番の集中力を付けるためだった。
門田(当時はオリックス)と野茂の初対決は90年4月18日、日生球場。野茂は10日の西武戦でプロ初登板。6回4失点で敗戦投手になったが、本塁打は打たれなかった。当時の西武には清原和博、秋山幸二などの長距離砲が揃っていた。門田は胸をなで降ろした。
野茂は初回、オリックス打線を三者連続三振の立ち上がり。門田は味方の攻撃と野茂の投球を「ホームラン打つなよ、打たれるなよ」と、心配と興奮が入り混じった気持ちで見ていたという。
打席が回ってきたのは二回。野茂の球種は速球とフォークボール。狙い球をストレート1本に絞った。初球は狙っていたストレート。バットを強振すると打球は弾丸ライナー。アッという間に右翼スタンドに消えていった。その時、門田は41歳だった。
「同じ1本のホームランでもこだわりがある。それがプロでしょう」
後に門田はそのことについてこう語った。
門田が引退したのは92年。最後の試合は10月1日の近鉄戦。相手投手は奇しくも野茂だった。最終打席はフルスイングの空振り三振。その年の5月20日のロッテ戦で門田は44歳の史上最高齢で1試合2本塁打。パワー健在と思われたが本人の感覚は違うものだった。
門田にとって打った瞬間、打球がピンポン玉のように小さくなって飛んでいくのがホームラン。それがそのシーズンは打球が小さくならず、フェンス越えと思った当たりがフェンス前でおじぎするようになったそうだ。
「何もかもやり尽くし、トライし尽くして、すべてが終わりました」
引退会見でそう言うと門田は静かにバットを置いた。(了)