「野球とともにスポーツの内と外」(46)-(佐藤 彰雄=スポーツニッポン)

◎“記憶に残る”好投手の男気
 そのとき-。
 隣に座っていたベテランの先輩記者が言いました。
「ピッチャーだ。ピッチャーから目を離すな。細かい仕草まで見逃さずにメモしておけよ」
 打球の行方を追っていた私は、ハッとしてマウンドに視線を移しました。長身のピッチャーは、少し首を傾けて後方に飛んでいく打球を追った後、視線を元に戻し、ガックリするふうもなく、悔しさを顔に出す様子もなく、表情を変えずに(のようでした)もう次の打者に備える構えを見せていました。
 1977年(昭52)9月3日。東京・後楽園球場。本拠地にヤクルトを迎えた巨人は2-0で迎えた3回一死、王貞治(現・福岡ソフトバンク会長)のバットからついにハンク・アーロンが持つ米大リーグ通算本塁打記録(755号=当時)を抜く通算756号の世界新記録が飛び出しました。ライナー性のアーチを描いて右翼席に突き刺さる完璧な本塁打-。
 8月31日に755号を放ち、翌9月1日から2試合の足踏み。緊迫の日々は、いつ飛び出すかのカウントダウンに入っていた王と、こちらも誰が投げ、いつ打たれるかのカウントダウンに入った投手陣の“神経戦”とでも言えたでしょうか。そして迎えた9月3日。マウンドに立ったのは鈴木康二朗でした。
▽「勝負球の外角シュートが…」
 当時のスポニチ本紙に面白い記事が掲載されています。
-9月2日から始まった巨人の対ヤクルト3連戦。9月1日の対大洋戦での不発を受けて次から始まるヤクルトの鈴木らと三本柱を形成する松岡弘、安田猛の2投手は尻込み。「今日(9月1日)出てくれと祈りたい気持ちだった。あのマウンドはホント、嫌なもの、立ちたくない」(松岡)-。
松岡は8月28日に754号を打たれているとあってその気持ちは多くの投手陣を代弁していたかもしれません。
 球史に残る偉業が達成されたこの日、巨人担当2年目の私は、先輩記者たちの指示に従って走り回るだけに終始していましたが、気になっていた鈴木の“痛恨の被弾”についてのコメントを当時のヤクルト担当記者はこう伝えていました。
 「5球目(2ボール2ストライクの後)のシュートがボールになったのがすべてです。6球目のシュート、外側を狙ったのがど真ん中に入ってしまった。今日に備えてじっくり研究し出した結論は外角シュートでした。でも、あの1球は魅入られるようにスーッと(真ん中に)入ってしまった」
▽「俺は逃げなかった」
 鈴木が逃げることなく肝に銘じた真っ向勝負。鈴木が負け、王が勝ったという、それは“勝負の綾(あや)”だったのでしょうね。
 私はこのときの巨人担当の後、翌1978年(昭53)にヤクルト担当を命ぜられました。広岡監督の2年目。ヤクルトが初のリーグ制覇、日本一にもなったシーズンです。担当記者となって接した鈴木は、特別に目立つ存在ではなくむしろ地味。それでいて王に真っ向勝負を挑んだようにマウンドに立つと人が変わりました。同年13勝3敗でセ・リーグ最高勝率(.813)投手になってチームの躍進に貢献しています。
 この人が…2019年(令1)11月19日に肺炎のため死去(享年70)していたことが今年(2023年)2月14日付の新聞各紙で報じられました。新聞記事によると、鈴木は引退後、娘さんに王との勝負について「俺は逃げなかった」と常々、話していたとのことでした。1949年(昭24)4月18日生まれ。茨城県北茨城市出身。ヤクルト→近鉄。いつまでも記憶に残る好投手でした。合掌。(了)