◎球界を救った選手会(3)-(菅谷 齊=共同通信)
◎食糧難と地方興行
八百長事件が起きるにはそれなりの理由があった。「生活費が欲しい」からである。
太平洋戦争が終わると、食糧難が国民を襲った。プロ野球界もそれに直面した。それでもプロ野球を再開したところに野球人のただならない情熱がうかがえる。
地方での試合は、言葉を代えれば「米調達」だった。
巨人の川上哲治から聞いたことがある。
「軍隊で使っていた木綿の靴下があるんだ。それに米を入れてね。いくつもボストンバッグやリュックサックに入れる。それを持って帰って来るんだよ。汽車の網棚なんか、そんなバッグやリュックサックでいっぱいだったよ。時代をあれほど象徴していたことはなかったな」
どの選手も試合が終わると、米の買い出しに出かけたという。
汽車のお客の多くは“かつぎ屋さん”だった。米を調達した人をそう呼んだ。命の米を抱えて満員の汽車に乗っていた。
プロ野球はそれだけではなかった。米買い出しを兼ねた試合は、その裏に興行師との問題があった。
「あの頃はね、その土地の顔役に頼まなければ試合ができなかった。簡単に言えば、その道の方にお願いしたわけ」
セ・リーグ会長だった鈴木竜二はそう語っていたものである。
こういう話がある。物資が豊富な地方を選んで試合を行うのだが、地元の顔役から、興行権を譲ってくれたら食糧を選手に提供する、と提案された。食糧獲得を優先してチームは試合に臨んだという。
試合のギャラは現金だけでなく、米でもらうことがあった。マネージャーが一升桝を持参しており、それできっちり量って選手に分け、選手はユニホームのポケットなどに入れて持ち帰ったこともあったというから、生きるのに必至だったことが分かる。
一方、試合では八百長が行われていた。無政府状態だった。
こんな状態から抜け出すために立ち上がったのが各チームの主力選手たちだった。選手会を作ろう、となった。合言葉は「球界の掃除と球界の将来のために」-。
「食料難、八百長、興行師との関係など、ほうっておいたらプロ野球はつぶれる、と思っていたからね。せっかく出来上がったプロ野球をだな、自分たちの代でつぶすわけにはいかない、と心ある選手たちはみんなそう考えていたんだ」
巨人などで名将といわれた藤本定義は後年、そう語っていた。(続)