「100年の道のり」(63)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎戦争中に結婚した赤バット
 太平洋戦争が始まって間もなく、日本の戦局に変化が見えてきた。劣勢である。プロ野球界から優れたプレーヤーの戦死が徐々に増えた。1945年(昭和20年)は、後で分かったことだが、勝てる望みはなかった。この年、プロ野球は休止せざるを得ない状況に追い込まれた。
 今から考えると理不尽とも思えるのだが、戦時にもかかわらず結婚する人たちがいた。出征しても「二度と帰れないだろう」としながら式を挙げた。
 巨人の川上哲治もその一人だった。45年2月に結婚した。25歳になる1か月ほど前である。
 川上はすでに巨人を代表する選手となっていたし、球界有数の左打者として注目されていた。スター選手として人気があった。戦前の38年に巨人入りし、投手から打者に転向して素質を開花させた。
 ・39年=首位打者(3割3分8厘)最多安打(116安打)打点王(75打点)
 ・40年=本塁打王(9本)
 ・41年=首位打者(3割1分)最多安打(105安打)打点王(57打点)
 この3シーズンは長打率1位でもあった。
 将来を嘱望された川上も兵役に就いた。訓練に際し、大変な勉強家だったという証言がある。教官の代わりをすることがあり、そのときの姿勢を見て「リーダーシップがある」と見ていた同僚が多い。
 しかし、代償もあった。暗い電灯の中での勉強で近視になり、爆撃の練習で難聴になった。野球選手としては致命傷になりかねないものだった。
 結婚の相手女性は、2年連続首位打者を逃した年に会ったことがあった。知人の紹介だったが、彼女は宝塚歌劇団にいた。川上との縁談が持ち込まれたとき、宝塚は休演になっており、先行き再開できるかどうか分からない状態だった。それが結婚を決意する理由の一つだったという。
 “赤バットの川上”と人気のあった川上青年の一コマである。
 戦後、川上時代を築き「打撃の神様」と呼ばれ、監督時代は「管理野球」で9連覇を達成し、武骨で厳しいイメージがある。その堅物が戦時中、それも敗色濃厚のときに所帯を持った。不思議な感じがする。
 戦争は思わぬドラマを生むものである。(続)