「ノンプロ魂」(1)-(中島 章隆=毎日)

第1回 改革者・野茂英雄(上)
 いきなり私事で恐縮だが、「退職してよかった」と心の底から思えるのは、連日午前中から昼過ぎにかけて大リーグ中継を満喫できるからだ。とりわけ大谷翔平のエンゼルス移籍以降は、ほぼ連日、テレビの前で一喜一憂している。
 振り返れば、日本国内で現在のように大リーグ中継を自宅テレビで楽しむことができるようになったのは、今から28年前のことになる。近鉄球団の大エース、野茂英雄が球団とケンカ別れして単身渡米、ドジャースのユニホームにそでを通してからだ。NHKが衛星放送を開始したタイミングとも重なった。
その年、1995年の大リーグは、泥沼化した労使紛争が長期化し、シーズンの開幕すら危ぶまれる事態に陥っていた。仮に開幕にこぎつけても、野茂が果たしてメジャーリーグで通用するのか、誰にも確信がなかった。日本球界でトップスクラスの高年俸を稼いでいながら、大リーグの最低年俸で契約を結んだ野茂に、国内の野球ファンは胸を痛めるしかなかった。
だが、そうした懸念は一掃された。当時のクリントン大統領の介入もあって、労使紛争が解決、約1カ月遅れて大リーグ公式戦が始まった。ドジャースのラソーダ監督は、村上雅則以来30年ぶりに日本球界からやってきた野茂の起用法を慎重に探りながら大リーグの水になれさせていったが、野茂は老練な監督の予想をはるかに上回る結果を残していった。
デビューから1か月後の6月2日のメッツ戦でメジャー初勝利を挙げると、同24日のジャイアンツ戦で初完封。上体を大きくねじった「トルネード投法」から繰り出す快速球と落差の大きいフォークボールに、大リーガーのバットはおもしろいように空を切った。
球宴までの前半戦だけで6勝1敗の好成績を残し、オールスターゲームでもナ・リーグの先発投手としてア・リーグのランディー・ジョンソンと互角に投げ合った。
前年のワールドシリーズすら中止に追い込んだ大リーグの労使紛争。欲の皮の突っ張り合いとしか思えない労使双方の対立にうんざりしていた本場の野球ファンにとって、日本での高年俸を捨てて大リーグに挑んできた26歳の日本人投手の活躍は実に新鮮に映った。「NOMOマニア」という熱狂的なファンも生まれ、野茂の出現は、米国の「野球離れ」を救ったともいわれている。
日米の野球の歴史を、たった一人で塗り替えてみせた野茂英雄という改革者はなぜ誕生したのか。
野茂は、大阪の府立成城工高(現府立成城高)から社会人野球の新日鉄堺に進んで投球に磨きをかけた。野茂が渡米した95年に活動を休止した社会人野球チーム、新日鉄堺での3年間の体験が、野茂という改革者を生み出す要因になった。(続)