「ノンプロ魂」(11)-(中島 章隆=毎日)

第4回 名将の空白埋めた3年間・野村克也(中)
 2003年、野村克也の社会人野球監督としての1年が始まった。2月1日にはプロと同じように静岡県中伊豆にある「志太スタジアム」でキャンプインした。
球場名からわかるように、シダックスのオーナーである志太勤が自身の故郷に作った自前の施設だ。両翼100㍍、中堅122㍍は都市対抗が開かれる東京ドームと同サイズ。グラウンドには人工芝が敷き詰められている。
 上下真っ赤のユニホームに身を包んだ背番号「19」はプロ時代にも負けず劣らず、意欲満々だった。野村らしさが発揮されたのは、昼間のグラウンドでの練習よりもホテルに戻ってからの夜だった。選手は一室に集められ、野村教室が開校した。
教材はオリジナルのテキスト「ノムラの考え」だ。阪神の監督時代にもキャンプのミーティングで選手に配布された資料で、シダックスの選手に配られたのは「作戦編」と「守備編」。A4判50枚ほどのボリュームになる。
キャンプを取材した記者に野村はこう説明した。「社会人チームの戦力差はそれほどない。勝敗を決めるのは、教育や指導という目に見えない力。ある意味で、監督の力といってもいい。監督の指導や判断に近い気持ちの選手がどれだけいるか、それが重要。一発勝負の社会人野球ではなおさらだ」
実は、監督に就任する1年前のキャンプでも野村は志太に頼まれて「特別コーチ」として中伊豆を訪れ、ミーティングで「ノムラの考え」を選手に伝えていた。もちろんそれは時間的な制限もあり、「ほんのさわり」程度だった。正式に監督に就任したことで、野村自身も指導に力が入るのは当然だ。
野球の技術論や戦術面にとどまらず、「人はなぜ生まれてくるのか」「自分の価値とは何なのか」といった哲学面にも及んでいるのが野村の教えの特徴だ。若い選手たちに、野球人として以前に、社会人としてどう生きるべきかを丁寧に説き続けた。
約3週間の中伊豆キャンプに続いてオープン戦へと移行するのはプロ野球と同じだが、オープン戦ではアマチュア球界ならではの「組織間の壁」に直面する場面もあった。志太スタジアムでの帝京大とのオープン戦。野村はベンチ入りすることができなかった。
「芸能人とは試合をしてはならない」という日本学生野球憲章の規定により、テレビのCMに出演している野村は「芸能人」とされ、日本学生野球協会がベンチ入りを認めなかったのだ。
社会人野球の公式戦は3月の東京スポニチ大会から始まる。野村シダックスの初戦はヤクルト時代ゆかりの神宮球場での王子製紙戦だった。野村がエースに育てようとしている野間口貴彦の力投と打線の援護もあり6-4で競り勝ち、うれしい公式戦初勝利を飾った。続く2回戦では関東地区の強豪、日本通運に0-2で敗れ、社会人野球のレベルの高さを経験した。
この時期のチームについて野村は「ボーンヘッドの連続で辛かった」と、例によってぼやき続けながらもチームは着実に力をつけていく。5月の公式戦バーブルース杯(岐阜)でシダックスは公式戦初タイトルを獲得し、秋の社会人日本選手権の出場権を獲得した。
6月から始まった都市対抗予選も20歳の野間口、25歳の武田勝の右左のエースの活躍と、パチェコ、キンデランのキューバコンビの打棒爆発で順調に勝ち上がり、東京都第1代表で都市対抗本大会出場を決めた。シダックスは3年ぶり5度目の都市対抗出場だったが、周囲の目も「さすが野村監督」という評価が高まった。
本大会に出場する32チームの監督が大会前に実施した本命・対抗チームの予想で、22人がシダックスを「本命」(13)、「対抗」(9)に挙げた。過去5度優勝している川崎市・東芝は13人(「本命」8、「対抗」5)を大きく引き離し、まさに「大本命」だった。
野村シダックスは1回戦で豊田市・トヨタ自動車を5-2で破って波に乗り、次々と強豪チームを撃破、決勝にコマを進めた。決勝の対戦相手は3年ぶり2度目の優勝を目指す川崎市・三菱ふそう川崎だった。
就任1年目の野村がいきなり社会人野球の頂点を射止めるのか。9月2日の決勝戦。序盤からシダックスのペースで試合は進んだ。六回まで野間口の力投が光り、川崎市打線を2安打に抑え、3-0とシダックスがリードした。
「あと3イニング」。百戦錬磨の野村の頭にも優勝のイメージは膨らんでいたはずだ。だが、予選の最激戦区・神奈川を勝ち抜いて都市対抗出場を果たした川崎市の打線はしたたかだった。七回1死後、佐々木勉が二塁打で出塁、続く2打者が死球と四球で満塁と野間口を攻め立てた。
投手コーチがマウンドの野間口のもとに歩み寄った。すでに投球数が138球に達していた野間口は「交代だろうな」と腹をくくっていた。ところが投手コーチは「何とか頑張れ」と野村の指示を伝えた。まさかの続投だった。
野間口は続く打者にフルカウントと粘られた末に四球を与え、押し出しで1点を失った。野村はそこでもまだ動かなかった。迎えた打者は4番・西郷泰之。31歳のベテランは勝負所を逃さない。初球のスライダーを中前にはじき返し2者が生還して同点に追いついた。野間口は145球でマウンドを降りた。この後、川崎市はスクイズで勝ち越し点を奪い、まさかの大逆転で黒獅子旗を手にした。
大会の表彰式後、野村はミーティングを開き選手に詫びた。「最後の最後になって、私自身が決断できなかった。みなさんに迷惑をかけたと感じています」
社会人監督1年目、最高の舞台で継投機が遅れた。名将はこの時のことを後々まで悔やむことになった。(続)