「いつか来た記者道」(71)-(露久保 孝一=産経)
◎甲子園で燃えた「稲むらの火」の精神
2024(令和6)年は能登半島地震という悲惨な災害から始まった。改めて、地震・津波の国という印象を強くした人は多かったと思う。大災害の歴史の中で、和歌山で起きた「稲むらの火」という逸話がある。稲を燃やして村人を津波から守った濱口梧稜(はまぐち・ごりょう)の英雄伝である。
その救世主は、黒船ペリー来航の前年の1852年に稽古場を創った。それが、のちの県立耐久(たいきゅう)高校になり、令和時代に入って野球部は強くなった。強豪高ひしめく和歌山で、24年の選抜に初出場する快進撃を遂げた。創部120年目の超伝統校の甲子園晴れ姿に、地元紀州はもちろん、野球ファンから熱い視線が送られた。
甲子園大会では、耐久は1回戦で中央学院(千葉)と対戦した。空しく1-7で敗退する。その中で5番打者の白井颯悟選手は、二塁打を含む2安打を放った。試合後、同選手は「速いボールにも対応できて、練習の成果を出すことができました」と胸を張った。今大会から低反発の金属バットが導入され、白井は打球をより遠くへ飛ばせるようにとティーバッティングで連打する練習を重ねた。それが力強いスイングを作った。井原正善監督は1年前から指導法を「自主性重視」に切り替え、選手たちは練習に工夫を加えて実力をアップさせた。
▽「自主性重視」が選手の力を変える
甲子園の記者席からは、耐久高野球の自主性は学校創立者の濱口の精神に通じるなあ、という声が聞こえたという。「稲むらの火」を起こした濱口は、1820年に紀州の広村(現在の広川町)に生れ、紀州から千葉・銚子に渡って醤油醸造業(現在のヤマサ醤油)の7代目当主となる。
郷里に戻り、54年に大地震が発生し紀伊半島一帯を大津波が襲った。濱口は、田んぼの稲束を積み重ねた稲むらに火を放ち、燃え上がる炎で村人に警告し「津波が来るから山へ逃げろ」と叫んで、高台へ誘導する。津波は村を飲み込んだが、死者は一人も出なかった。破壊された村を復興させようと濱口は、被災施設を造り農漁業器具をそろえ、ついには長さ600、高さ5メートルの防波堤の築造に取り組んだ。事業家としての蓄財を社会に還元して、郷土を災害から守った濱口は今なお郷土の英雄となっている。
2023年夏の甲子園大会で、慶応高は選手の自主性を重んじる野球で頂点に立った。自主性の真髄は「指導者が選手をよく観察し、何にやる気を見出すか、それを見つけ成功体験を積み重ねように寄り添うことにある」とベテラン監督は語る。
プロ野球界でも「自主性」は重視されている。不振に喘いだ時、試合での大一番の時、絶好のチャンスの時、投手や打者には鋭い自主性が問われる。危機を突破し、将来のリスクに供えることは、170年前の「稲むらの火」の実践がお手本になる。野球界でも「逆境に強い」かがり火を各方面で灯してほしいものである。(続)