「ONの尽瘁(じんすい)」(11)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

昨今お目にかかることは少なくなったが、私がプロ野球の取材に携わるようになった頃にはお決まりのように繰り返されるシーンがあった。それはシーズン最終盤のタイトル争いにまつわる「勝負回避劇」だ。首位打者やホームランキングの座をかけて、相手の当該打者を敬遠攻めにしたり、味方の選手をスタメンから外して勝負を避けたり、とファンにとって興味をそがれることがよくあった。
巨人番記者になりたての1985(昭和60)年、王貞治が現役時の1964(昭和39)年に樹立した、シーズン55本塁打の日本記録が脅かされる事態が起きた。肉薄したのが、阪神バース。54本塁打を放ち、あと1本でタイ記録まで迫ったが、残りは10月22、24日のわずか2試合と切羽詰まった。その相手が、こともあろうに2試合とも王が率いる巨人だった。既に阪神が優勝を決め、消化ゲームとなったこのカード最大の注目はバースの記録更新なるか、に集約されていた。だが、こうした場合、勝負は避けられ、四球攻めとなるのが常だった。記録保持者たる王のいる巨人が相手では、それもなおさらといえた。
当時、疑問に思っていたことがある。こうした展開で勝負回避を指示するのは、誰なのか?
それを取材する機会が与えられ、体内のアドレナリンが増殖されたような高揚感を覚えたものだった。だが、どこを、どう、つついても、それはわからなかった。
もちろん、選手起用は「監督マター」。敬遠などの戦法も、監督の専権事項にほかならない。ほかの似たような事例を見ても、その指示は、指揮官から発出されるケースが多かった。
ところが、王vsバースの場合、事情はいささか込み入る。指揮官自らがタイトル争いの当事者となり、勝負を回避させるような指示は出しにくくなるからだ。王は試合前、報道陣から「まさか敬遠するんじゃないですよね?」と聞かれ、「するわけないだろ!そんなことしてまで記録を守って何の意味があるんだい?」と答えている。
当時の取材を振り返っても、王自身から何か指示が出されたという形跡はなかった。むしろ、球団関係の誰かが指揮官の立場を忖度(そんたく)した上で「記録を越されるな!」とナインに手を回した可能性は否定できなかった。
そんなデリケートな試合で、巨人で1人だけバースに勝負を挑んだ投手がいた。10月22日の試合(甲子園)に先発した、江川卓だった。江川は後年、当時のことを聞かれ「誰からも『勝負するな』と言われた記憶はない」と話している。
江川は、阪神掛布雅之と演じた「名勝負」がそうだったように、「真っ向勝負こそファンのため」を一家言としていた。バースの弱点を知り尽くし、それまでの3年間で打たれた本塁打は1本だけと実績も備わっていた。敬遠の指示があったとしても、容易に首肯(しゅこう)する性(さが)でもなかった。結果は左前打、フルカウントの四球、三邪飛。被弾は防いだ。一方でほかの投手陣はあからさまに勝負を避けた。同24日(後楽園)の最終戦は先発の斎藤雅樹、リリーフの宮本和知、橋本敬司で4個の四球を与えた。じれたバースはボール球を強引に打ちにいきヒットとするも、王の記録に並ぶことは阻まれた。それでもこのシーズンは打率.350、本塁打54、打点134をマーク。セ・リーグで1973(昭和48)、74(同49)年の巨人王以来の「三冠王」に輝き、こちらは王に並んでみせた。
翌1986(昭和61)年にも、バースは「7試合連続本塁打」をかけて、再び、王の記録に挑むことになる。このときも「勝負するな!」という発信者不明の伝達が巨人内を駆け巡った。「7試合目」で、またも矢面に立つことになった江川は試合前、捕手の山倉和博から「(バースとは)勝負しないように言われている」と促されると、「オレは聞いてない!」と突っぱねた。4打席は無難に抑えながら、最後の5打席目に後楽園の右翼場外へ特大弾を浴びてしまう。
記録が並ばれた瞬間、ベンチの王は思わずつぶやいた。その唇は「すごいな…」と動いたように見えた。指揮官は個人タイトルへの関与の有無やその度合いにかかわらず、勝負だけではない領域にまで心を砕くことになり、神経のさらなる摩耗にさらされるのだった。(続)