「ノンプロ魂」(2)-(中島 章隆=毎日)

◎改革者・野茂英雄(中)
 高校野球の世界では全国的に全く無名の大阪府立成城工高で投手をしていた野茂英雄は、先輩のつてを頼って社会人野球の新日鉄堺に進んだ。そこでの3年間を抜きにして「大リーガー野茂英雄」の誕生はなかったと言っていい。
高校時代、140㌔台のスピードボールを投げることで、一部の野球関係者から知られていた野茂だが、持ち球は速球とカーブだけ。しかもコントロールに難があった。
社会人1年目、野茂の人生を変える出来事があった。社会人野球の最高のイベント、都市対抗野球大会の大阪・和歌山地区予選第3代表決定戦。大阪ガスに5-6とリードされていた新日鉄堺は八回、新人の野茂をマウンドに送った。大阪ガスの中軸から簡単に2死を取った野茂だったが、続く6番打者に初球のストレートを左翼スタンドまで運ばれた。試合はこのまま5-7で新日鉄堺が敗れ、都市対抗本大会の出場を逃した。
打ち上げの宴席で野茂は泥酔し、声をあげて泣いた。野茂は公式戦初登板だった都市対抗予選1回戦で、大和銀行から完封勝利を挙げるなど、新人離れした活躍を見せただけに、誰も野茂を責めるはずもない。それでも野茂は2死からの「痛恨の1球」にこだわった。
「あのホームランを打たれてから、僕は野球に対する考え方をガラッと変えました。それまでの僕は、何の自覚も目的もなく、日々の練習をのんべんだらりとやって、新人の務めだった雑用をこなしていた。〝こんなものでいいのかな〟と疑問におもうことはあっても、突き詰めて考えることはなかった」
元ロッテ球団のウグイス嬢で、スポーツライターに転身した鉄矢多美子の取材に野茂はこう答えている(『素顔の野茂英雄』小学館)。
野茂が取り組んだのは新しい球のマスターだった。最初はスライダーに挑戦したが、監督からは「横の変化(スライダー)より縦の変化が合うかもしれない」と提案された。幸い、チームの先輩でコーチ兼任の清水信英というフォークの達人がいた。ボールの握り方から球を放すタイミングまで、見よう見まねで練習に明け暮れた。秋ごろまでには野茂のフォークボールは打者の手前で面白いように落ちるようになった。
社会人2年目となった1988年、野茂はフォークボールを駆使してアマチュア球界のエースとして評価を高めていく。
都市対抗の予選では第3代表決定戦でNTT関西を1失点完投で下して待望の本大会出場を果たした。初めて東京ドームが舞台となった第59回大会で社会人2年目の野茂が躍動した。1回戦で優勝候補の東京都代表・NTT東京を2失点完投で破り、2回戦は「東海の暴れん坊」の異名を持つ富士市代表・大昭和製紙を相手に延長17回を一人で投げ抜き、2-1で競り勝った。3回戦は優勝した川崎市・東芝に敗れたが、野茂は活躍した新人に贈られる「若獅子賞」を獲得した。
都市対抗での活躍が野茂を次のステージ、全日本代表へと導いていく。(続)