「いつか来た記者道」(63)-(露久保孝一=産経)

◎台湾球児100年ぶりの甲子園快打

 2023年夏の甲子園高校野球大会は、レトロを強く意識させられた球児たちの晴れ姿であった。優勝した慶応高は107年ぶりの栄冠を手にした。慶応の旋風に比べると「静かなブーム」ではあったが、台湾球児として甲子園初出場から100年目の舞台に立った高知中央高の選手がいた。謝喬恩(シャ・チャオエン)外野手である。
 慶応は1916(大正5)年の慶応普通部以来の日本一だった。謝選手の出場は、日本統治下の台湾の学校が23(大正12)年、甲子園全国大会(当時は全国中等学校優勝野球大会)に初参加して以来の快挙となった。ともに1世紀に及ぶ「栄誉」であり、高校野球の伝統の重みを感じた野球ファンも多かったはずである。

▽謝選手が3安打4打点で勝利呼ぶ
 2年生の謝選手は、初戦の川之江(愛媛)戦に「1番左翼」で出場し、5打数3安打4打点と活躍し、同校の甲子園初勝利に貢献した。五回に中堅の頭上を越える適時二塁打を放つなど3打席連続タイムリーの勝負強い打撃で、センスの良さを印象付けた。次の履正社(大阪)戦には3番を任せられたが、4打席で2三振を喫し無安打に終わった。 
 「甲子園は楽しかった。良い先輩たちでした。来年もまた甲子園に来ます」
 台湾留学生は、あこがれの聖地でのさらなる飛躍に胸を弾ませていた。アルプス席では、台湾北西部の桃園からやって来た両親や親戚が声を出して応援した。父親は「とてもうれしい。誇りに思います」と息子のユニホーム姿に目を細めていた。
 謝選手は、少年野球で台湾代表としてアジアの大会で優勝したこともあり、子どもの時に見た甲子園での高校野球に憧れ、台湾出身の先輩がいた高知中央高への進学を選んだ。日本語を懸命に勉強中だが、好きな日本語は「一生懸命」だという。
 台湾チームの甲子園出場といえば、第1号となったのは100年前の台北一中だった。その8年後、1931(昭和6)年に嘉義(かぎ)農林学校(嘉農、KANO)が準優勝を果たした。実話を元に描いた映画『KANO~1931海の向こうの甲子園~』(2015年公開)は、「世界のホームラン王」王貞治さんも顧問として参加して製作された感動の野球物語である(この連載「いつか来た記者道」の5回目で紹介)。
▽王さん「台湾・日本でさらに野球ブームを」
 日本統治下の嘉農野球部は、キャッチボールもまともにできない少年ばかりだった。日本人の指導者・近藤兵太郎(永瀬正敏)が鬼監督になり、悪戦苦闘の練習の末、試合に勝てるチームに育て上げ台湾代表を勝ち取る。船で日本に渡り甲子園に登場して決勝まで勝ち進んだ。王さんも勧めるこの名作をまだご覧になってない方はぜひ、魅力のストーリーを味わってください。
 KANOの映画は台湾で大ヒットし、その好影響で甲子園は台湾人観光客の「聖地」となって人気を呼んでいる。新型コロナウイルス対策緩和後、甲子園を訪れる外国人では台湾人が最多という。台湾と日本はまさに親しき隣人同士であり、王さんがいうように「台日間の友好関係を一層深めて、野球ブームを盛り上げていきたい」というのはファン共通の願いだと思う。(続)