「ノンプロ魂」(3)-(中島 章隆=毎日)
◎改革者・野茂英雄(下)
新日鉄堺での社会人2年目の1988年、野茂英雄は日本のアマ球界を代表するエースに成長し、次なる活躍の場は国際大会だった。
この年は、ソウル五輪の年でもあった。84年のロス五輪決勝で米国を破って金メダルに輝いた全日本には、ソウルでも五輪連覇をと期待する声が高まっていた。そんな時期に全日本メンバーに選出された野茂だから、「五輪で金メダル」が大きな目標となっていただろう。だが、初めて国際舞台に臨んだ野茂の前に、五輪には出場しない「世界最強」のチームが立ちはだかった。
当時、世界のアマチュア野球界で「最強」を誇ったのがキューバだった。冷戦下、東西両陣営のボイコット合戦となったロス五輪に、キューバは出場していない。余談ながら、日本もロス五輪の予選を兼ねた82年のアジア選手権の決勝戦で台湾に敗れ、ロス五輪に出場できないことになっていた。ところが、代表に決まっていたキューバがボイコットしたため、日本は追加招集の形でロス五輪出場が決まり、見事にその幸運を最良の結果に結びつけたという因縁がある。
それから4年。ソウル五輪の約1カ月前の88年8月にイタリアで開催された第30回世界アマチュア野球選手権。野茂は初めて全日本代表に選ばれ、「日の丸」のユニホームにそでを通した。その大会で、野茂はキューバの強さを目の当たりにする。
8月27日、フィレンツェでの予選リーグのキューバ戦。野茂は八回からリリーフで登板したが、九回に2点を失いサヨナラ負けした。さらに4日後、パルマでの準決勝のキューバ戦に先発し、八回途中まで8安打5失点で敗戦投手となった。
「キューバを倒したい」。それが野茂の成長の原動力となった。ロス五輪に続いてキューバが参加をボイコットしたソウル五輪で、日本は決勝で米国に敗れ、銀メダルに終わった。野茂は決勝戦で2点リードされた八回途中から登板し、米国打線を無安打・無失点に抑えた。米国チームと言っても大リーガーは不在。野茂はおそらく、キューバ戦ほどには気分が高揚しなかったことだろう。
野茂は社会人最後の年となった89年、全日本のエースとして国際大会のマウンドを9試合経験したが、そのうちキューバ戦は4試合。チームは2勝2敗だった。最後の4試合目は8月にプエルトリコで開かれたインターコンチネンタルカップ決勝。先発した野茂は、立ち上がりからキューバの強力打線を相手に5者連続三振を奪う快調なスタートを切ったが、五回に主砲グリエルに3ランを浴びるなど計4失点で降板、敗戦投手となった。
この時の遠征で、野茂と同部屋になったNTT東京の与田剛(現野球解説者)は、二段ベッドに腰掛けながら夜中まで語り合った野茂の言葉が強く印象に残っている。キューバや米国のドラフト候補らの「今まで見たこともないようなパワーや強さ」について話しているとき、野茂は「世界最高峰の舞台で野球をしてみたいなぁ」とつぶやいた。当時は、大リーグの情報も日本には入ってこないし、メジャーに挑戦しようなどとは誰も考えない時代だった。日本のアマチュア代表としてキューバをはじめとする世界最高峰を相手に戦った野茂だからこそ、思い描いた夢だった。
近鉄球団で5年間、日本のプロを経験した野茂は95年、ノンプロ時代の若い日に思い描いた夢を追うように、大リーグに挑戦し、「最高峰の舞台」で野球を心行くまで満喫した。(了)=敬称略、次号は反逆者・落合博満=