「ノンプロ魂」(4)-(中島 章隆=毎日)
◎反逆者・落合博満(上)
現役時代、史上最多の3度の三冠王に輝き、監督としても中日ドラゴンズを率いて8年間で4度のリーグ優勝と「日本一」1度に導いた名将、落合博満。プロ野球の歴史に巨大な足跡を残し、「日本プロ野球の顔」の一人であることに異論はあるまい。
その落合が、アマチュア時代、「エリート街道」から遠く離れたところからプロの道に入ったエピソードは有名だ。高校時代、甲子園とは無縁で、大学もほんの数カ月で中退、郷里の秋田に帰って草野球とボウリング三昧の暮らしをしていた。その落合をプロ野球の世界と結びつけたのは5年間に及んだ社会人野球での経験だった。
プロ入りまでに落合が歩んだ破天荒ともいえる異例ずくめの道のりを振り返ってみたい。
落合はロッテ入団7年目の1985年、2度目の三冠王を獲得した。その翌年、落合は初めての著書「なんと言われようとオレ流さ」を講談社から出した。その中で、秋田での少年時代を振り返っている。
落合は1953年12月9日、干拓地で知られる秋田県の八郎潟のほとりの寒村で女、女、男、女、女、男、男と続く7人きょうだいの末っ子として生まれた。父親は食糧事務所の役人で1年の大半は県内各地を回っており、母親が和菓子屋を営みながら7人の子を育ててきた。
長兄の影響で小学4年から野球を始め、中学入学時はすでに身長165㌢、体重65㌔に達し、1年からエースで4番打者。「若美町(出身地)に落合あり」と県下にその名をとどろかせた。
県立秋田工に進学したいきさつについて、著書では、こう書いている。
<高校に入るときはいろいろ勧誘もあったけど、秋田工業の建築科に決めた。理由は、あまり選手をいじらないと聞いたし、どっちみち就職するつもりだったから>
いまから37年前になるが、私は亡くなった落合の母・ユキから高校進学の際の話を直接、聞いたことがある。いかにも落合らしいエピソードなので、付記しておこう。
-中学3年になった落合のもとに、県内外の高校から勧誘が相次いだ。ある日、落合は近所の受験生の親が「博満クンだば、うらやましいな。あちこちの高校から『来てけれ、来てけれ』だもんな」と話しているのを耳にしてしまった。とたんに落合は「オラ、高校さ行ぐのやめた」-
「一度言い出したら、きかね子で……」。ユキたちが必死に説得して受けさせたのが秋田工だった。野球の名門として知られる秋田高や秋田商と違い、ラグビーの名門として知られる秋田工。甲子園には1964年に1度だけ出場したが1回戦で姿を消している。この選択が長い目で見ると落合に幸いした。
1年の春の大会はエースだったが、入部3カ月で肩を痛めて投手を断念。外野にコンバートされた。いきなりレギュラーとなった落合に上級生の風当たりは強かった。「上級生には毎日ぶん殴られた」と回想する。
<たかが1、2年早く生まれただけで、なんでそいつらにぶん殴られなきゃならないの>落合は練習に顔を出さなくなった。
<1年の春からけっこう打ったから、「高校野球とはこんなもんか。これなら練習なんかしなくていいや」と思っちゃった>
とも書いている。野球部の入退部を8回も繰り返したのは、大会の1週間前になると、野球部の監督が「試合に出ろ」と学校に呼び戻したからだ。試合に落合が必要だ、という側面もあるが、それ以上に「高校だけは卒業させたい」という監督の親心でもあった。
高校に行かなくなった落合は連日の映画館通い。それを可能にした事情もあった。落合は高校入学時から秋田市内で働く姉のアパートから学校に通った。朝、姉が仕事に出た後、寝ていようがどうしようが誰からも制約を受けなかった。
<高校を卒業したら、建設会社にでももぐりこめればいい>
と思っていた落合だが、3年の秋、野球部監督の勧めで東洋大野球部のセレクションを受け、一発合格。春のキャンプに呼ばれたが、左太ももの肉離れと足首のねん挫でリタイア。高校3年間、ろくな練習をしてこなかったのだから無理もない。
<オレよりヘタクソなヤツが、学年が一つ二つ上というだけで威張り散らす。冗談じゃないよ>
という思いもあり、わずか3カ月で落合の大学生活は終了。郷里秋田に戻ってしまった。未完の大打者、18歳の夏である。(続)