「菊とペン」(44)-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎恐怖のヒゲ剃りタイム
今年も順位予想がきれいに外れた。優勝をセは巨人、パはソフトバンクとした。その他球団の順位も崩壊である。
予想を後ろから読むと「うそよ」。プロ野球の取材が佳境に入ってきた。担当記者の皆さん、ひと踏ん張りしてください。
プロ野球記者に付き物とくれば、これはもう出張である。今回は出張時の思い出を。
20代後半のことである。当然、昭和のことだ。関西遠征である。歓楽街から少し遠い場所にホテルを取った。少し安いからで、歓楽街に背を向けたわけではなかった。
そのホテルの近くに気になる理髪店があった。道路から奥まったところで、ひっそり営業している印象である。普通の理髪店に比べて料金が激安とまでは言わないが安い。
球場入りまで時間があった。髪がかなり伸びていた。(あの頃が懐かしい)思い切って入ってみた。ウナギの寝床のように細長い作りで7~8の散髪台が並んでいた。
4、5人の客がいた。「いらっしゃい」の掛け声はない。理髪師と客たちが一斉に妙な視線を向けてきた。
入口で立ちすくんでいると、真ん中あたりから1人の理髪師がこっちだ、こっちだと手を振っている。彼の元に向かうと、ゲッ、右手にタバコ、左手には缶ビールが握られているではないか。
40代半ば、か。俳優の小林稔侍にちょっと似ていた。夏なのに長袖シャツを着ていた。
「まあ、お座り」と着座を勧められる。彼はタバコを消すと、「で、お兄ちゃん、どないするんや?」と尋ねてきた。これが関西流か。驚くほどざっくばらんだ。
「ええ、両サイドが重くなったので軽くする感じで。あまり短くしないでください」
彼は「ヨッシャ」と言うと、ビールをグビッと喉に流し込んだ。仕事に入った。余計なおしゃべりはせずに髪を切り続ける。終わった。鏡で後ろを見せられる。
「どないや?」と聞かれて感想を言える雰囲気ではない。首をタテに振った。
さて次はヒゲ剃りだ。散髪台が後ろに倒される。と、彼の顔つきが変わった。険しい。凄い形相だ。緊張感が伝わってきた。蒸しタオルと石鹸で顔全体の皮膚を柔らかくする。
顔面にカミソリが近づいてきた。彼はビールをまた一口飲むと、「動くなよ。絶対に動くなよ!」これはもう命令である。
まな板の上のコイ…まさに恐怖の時間である。石になった。5分~10分くらいだったと思うが、ひたすら長く感じられた。
まあ、それでもとにかく無事に終わった。私はぎこちない笑顔、彼は缶ビールを再び手に取って満足そうな笑顔を浮かべた。
会計をした。「また、おいでな」と言われて店を出た時は心底ホッとした。いい時間になっていた。駅に向かった。ショーウインドーでチェックした。結構短くなっていた。
球場入り。社の先輩が「オッ、床屋に行ったのか」と目ざとく声を掛けてきた。「実はこういうことがあって…」と説明すると、ハハア、訳知り顔でこう言う。
刑務所に入った受刑者は社会復帰のために様々な職業訓練を受ける。理髪師もその1つで、技術を身に着けて出所した人たちが集まる理髪店がある。相場に比べて安いそうで、「君が行ったのはそういう店だったんじゃないか」。少し寂しい場所にあるという。
ヒゲ剃り前のビールはアル中の影響だったかもしれないし、またカミソリを握った時の異変は過去のなにかがトラウマになっているのではないか。
夏なのに長袖シャツ…客もかつての仲間たちが常連になるそうで、となるとあの視線の意味がなんとなく分かる気がしてきた。
もちろん、先輩の〝怪説“は憶測の域を出ないし、私も半信半疑で聞いていた。
「ええ経験したやないか」
先輩に髪はほとんどなかった。以来、私は出張時に理髪店に行くことはなかった。(了)