「ノンプロ魂」(5)-(中島 章隆=毎日)
◎反逆者・落合博満(中)
<リトル・リーグ、甲子園、神宮へと続く道を歩んだものを、仮に、エリートと呼ぶなら、私はさしずめ、その対極に位置する野人派にあてはまる。なにしろ、十六歳から二十歳まで、ほとんど、野球らしい野球をしていないのだから>
これは落合博満が1993年のオフに、FA権を行使して中日から巨人に移籍した際、15年に及ぶプロ生活を振り返りながら出版した「勝負の方程式」(小学館)の冒頭に書いた一文だ。
秋田工高時代、先輩のしごきに耐えかねて、野球部の入退部を繰り返し、東洋大でも新入生の1学期すら経過しないまま退学、郷里の秋田・若美町(現・男鹿市)に戻ってしまったことは前回紹介した。では、18歳から20歳まで落合は何をしていたのか。
落合より8歳年長の長兄、一男さんが若美町の隣町にあったボウリング場で支配人をしていたこともあり、落合はボウリング場でアルバイトを始めた。
ボウリングのピンを拭いたりする雑用の間に、ボウリングの練習もできた。もとより運動神経が抜群で、スポーツ万能の落合は、あっという間にボウリングの腕も上達し、ベストスコアは286点。周囲の勧めもあり、プロボウラーをめざすことになった。
ところが、前掲の著書によると、プロボウラーへの道は、思いもよらぬ形でとん挫した。プロテストの受験料3000円も用意していた落合だったが、テストを目前にした時期に、交通違反で3000円の反則金を支払う羽目になった。初心者ドライバーを示す「若葉マーク」の貼り忘れだった。なけなしの受験料を失って、テストを断念した。結果的に、ボウリングブームはほどなく終わってしまうので、落合には幸いしたのかもしれない。
若美町に戻った落合がボウリングばかりしていたわけではない。なにせ、中学時代は「若美町に落合あり」と県下に知れ渡った剛腕・豪打の野球少年だ。すぐさま町内の朝野球に駆り出された。
落合がそでを通したのは実家がある角間崎地区の「角間崎スパローズ」。町内の自転車店の店主が店にたむろする若者に声を掛けてチームを結成し、監督を務めていた。スパローズのライバルは、町役場職員を中心にした「若美ウォーターズ」。落合の加入で打線が強化したスパローズとの間で白熱した戦いを繰り広げた。
軟式ボールを軽々と場外に運ぶ落合は、まさに朝野球の規格外。中学卒業時と同じように、だれもが「このまま若美町で埋もれるはずはない」と感じ始めていた。
その落合を、再び野球の世界に引き戻す役割を担ったのが、またしても秋田工高の恩師だった。「もう一度、野球に取り組んでみたい。今度こそ、まじめにやります」と落合から相談を受けたかつての監督は、社会人野球の東芝府中を紹介した。
社会人野球の「東芝」といえば、川崎を拠点にし、社会人野球の最高峰である都市対抗大会で何度も優勝している東芝本社の強豪チームを思い浮かべるが、東京・府中市の工場を拠点にする「東芝府中」は、野球部の歴史こそ川崎の本社チームより古いものの、都市対抗大会に出場経験がない弱小チームだった。
1973年11月、府中市の東芝グラウンドでセレクションを受けた落合は、スパローズでの〝自主トレ〟が効いたか、文句なしに合格。翌年1月、臨時工員として採用された。配属先は「電力システム制御部電力配電盤課」。初任給3万5000円。
2年ほど遠回りしたものの、野人派・落合が、プロにつながる道に戻ってきた。20歳の冬である。(続)