「菊とペン」(45)-(菊地 順一=デイリースポーツ)
◎王さんが初めて右足を上げた翌日…
巨人に関する原稿を書くために「読売巨人軍75年史 1934~2009」(株式会社読売巨人軍発行)を手に取ったことがある。
ページをめくる途中たまたま1962年(昭和37年)の項に当たった。見出しに「王が一本足打法で本塁打王、打点王」とある。
この年から王貞治さんは一本足打法で世界の本塁打王へと歩んで行く。王さんのファンならだれでも知っていることだが、意外なことが書いてある。
「しかしこの時、ネット裏で王の一本足に気付いた報道関係者はほとんどいなかった。王自身も試合後のインタビューで新打法のことは一言も触れなかったので話題にもならなかった」
エーっ、私はてっきり当時のスポーツマスコミは大騒ぎしたと思い込んでいた。そんなことがあるのか。
王さんが右足を上げて、つまり一本足打法で初本塁打を放ったのは62年7月1日、川崎球場での大洋⑮回戦だ。
一本足打法は打撃の悪い癖を矯正するための一時的な練習として始まり、実戦用ではなくイメージトレーニングだった。王さんはこの日初めて公式戦で右足を水平になるほど上げたのだった。
大洋の先発は稲川誠さんだ。王さんは第1打席で右前打、そして3回一死で初球の真っすぐを右翼席に運んだ。
記念すべき一本足第1号、プロ4年目で通算47本目だった。
デイリースポーツ62年7月2日付けを見た。「王、豪快な10号」の見出しが立っている。後記には「だが3回一死から王が向かい風の右翼席に10号ホーマーして先制」としかなかった。一本足はどこへいった。
図書館に足を運んだ。一般紙、スポーツ紙をチェックしたが「足を上げた」はどこにもない。
以後も詳しい記事はない。7月22日付けの読売新聞にやっと出てきた。「7月に入って王はフォームを変えた。投手が投球するとサッと右足を上げる」と記し、王さんもまた「結果がいいからボクにはこのフォームがいいんでしょう」と応じている。
球宴まで18試合で8本塁打、打順も1番から4番になる。
さすがにこの頃になると、どこの社も注目し始めた。報道が大幅に増えた。「案山子打法」と書く社があったし、デイリースポーツは「ケンケン打法」と表現していた。
なぜ最初に気づかなかったのか。王さんと同年代で、しかも親しかったという放送関係者(テレビ)に話を聞いた。
「王君ねえ、当時王は王でも三振王と呼ばれていましてね…」
いや、そういう話ではないのでと改めて趣旨を説明する。少しムッとした様子である。
「君ねえ、いまの尺度で物事を考えちゃいかんよ。いまはどこの局もニュースでスポーツの結果を伝えているし、スポーツの番組もたくさんある。当時はそんなものはなかった。取材する人も少なかった」
などなど。ちょっと違うような…と思ったが「ありがとうございます」とお礼を言った。
確かに当時はスポーツ部の記者がプロ野球や一般スポーツを掛け持ちで取材しており、キッチリした担当制はなかった。2年後にはアジア初の東京五輪が開催予定で、こちらに全力投球だったのかもしれない。テレビの民放各社は地方に展開していない。野球中継もネット裏からである。
それにしてもだ。この疑問を解くカギは王さんの著書にあった。「もっと遠くへ 私の履歴書」(日本経済新聞出版社)の中でこう記している。
「人間の心理は面白いもので、あまりに斬新なものは目で見てはいても、脳が受け入れないらしい。新打法はしばらく話題にならなかった」
さらに、
「最初は稲川さんたちも何か変な打ち方をしているなあという程度だったようで」
と振り返っている。
勝手な推察になるが、当時の取材陣は王さんが右足を上げて打っていると認識はしていても、ありえない事象を前に原稿にできず、放送でも言えなかったのかもしれない。それほど発想が際立って新しかったのだ。
私がタイムマシンに乗って、62年7月1日、川崎球場のネット裏にいたとしても、王さんが足を高く上げたと伝えられたか。思い込みが激しい私には無理だったろう。
ちなみに読売巨人軍75年史は「いずれにしても世界の一本足打法は静かに登場した」と記している。(了)