「ノンプロ魂」(6)-(中島 章隆=毎日)

◎反逆者・落合博満(下)
 落合は中日から巨人に移籍した1994年に出版した著書「勝負の方程式」(小学館)の中で、自身の野球人生を春夏秋冬の四季に例えてこう振り返っている。「私の考える冬の時期というのは、どのようにあがいてもどうにもならない季節」で、「私の場合は、十五歳から二十歳、高校、大学、浪人生活の時代がそれにあたる」。
冬に続く春。「私にとって春の季節は、東芝府中時代である」と書いている。母校秋田工高の恩師に「今度こそ真面目に野球をする」と頭を下げて斡旋してもらった東芝府中。ここで落合は20歳から25歳まで、仕事と野球に明け暮れた5年間を過ごす。「指導者に恵まれ、野球がおもしろくてしょうがなかった」と振り返るこの期間こそが野球人・落合を大きく育てる重要な時期となった。
 東芝府中時代の生活を最初の著書「なんと言われようとオレ流さ」(1986年、講談社)でこう紹介している。
 1974年1月28日、準社員(臨時工)として入社。初任給は3万5000円だった。<このときはまだ、野球でメシを食おう、などという気は全然なかった>。配属先は「電力システム制御部電力配電盤課」。発電所の発電装置に取り付ける回路盤を作る仕事だった。<最初のころはメシも食わずに自転車で朝八時に工場に行って、夕方五時まで仕事ばっかりという毎日だった>
 野球の練習は終業後の午後5時半から。野球部についてはこんな表現をしている。<当時の東芝府中の野球部は、草野球に毛のはえたクラブチームみたいなもので、二流というよりは三流に近かった><都市対抗出場の経験もない弱小チームだから、逆にオレにはよかったのかもしれない>
工場に隣接する練習グラウンドは、両翼98㍍の広さがあり、右翼側には高さ10㍍のネットが張られていたが、落合の打球はそのネットを軽々と超えていき、住宅の屋根や窓ガラス、駐車中の車を直撃した。このため、落合用にさらに6㍍のネットを上に伸ばす工事が行われた。当時は夜間照明がないため、日没後はひたすらグラウンド内を走らされた。そんな練習が夜10時ごろまで続いた。
猛練習の成果が表れたのは入社3年目の1976年。都市対抗・南関東予選で優勝し、東芝府中は東京・府中市代表として初めて都市対抗本大会出場を決めた。落合にとっても全国大会デビューとなった。
後楽園球場で行われた本大会で、落合は「4番一塁」で出場。大阪市・デュプロとの初戦、チームは2-0で初陣を飾ったが、落合は無安打に終わった。続く2回戦の松山市・愛媛相互銀行戦は0-5で敗れたものの落合は三塁打を含む2安打と気を吐いた。
続く77年、78年ともチームは都市対抗本大会出場を逃したが、落合は77年が浦和市・日本通運、78年も東京都・電電東京の補強選手として3年連続都市対抗出場を果たした。
78年の大会後、アマチュア日本代表に選ばれ、イタリアで行われた第25回アマチュア野球世界選手権に出場。世界最強を誇ったキューバ戦で、エース・ビネンから頭に死球を受けて退場するアクシデントもあったが、日の丸をつけてプレーをする経験もできた。
東芝府中での5年間に70本の本塁打を放った落合は、当然、プロ球団のスカウトの目にもとまる。だが、評価は分かれた。ネックとなったのは25歳という年齢だった。前年にも阪神のスカウトが指名あいさつに来たが、結局、ドラフト会議で指名はなかった。落合は「もうこれで、俺の人生にプロ野球はないな」と思ったという。
そんな中、熱心だったのがロッテと巨人だった。ただし、この年のドラフト会議は、「江川事件」で巨人がボイコット。結局、ロッテの3位指名で落合のプロ入りが決まった。
冒頭に紹介した落合の四季観では、ロッテに入団した落合は3度の三冠王に輝くなど、「太陽が頭の真上でいつも照り輝いている」(前掲書)季節を迎える。現役引退後も中日監督として実り豊かな季節を経験しており、春秋に富んだ野球人生を歩んだ落合だが、その基礎を作ったのがノンプロ時代にあったことは間違いない。(落合の項終わり)