「ノンプロ魂」(7)-(中島 章隆=毎日)

第3回 アマ球界随一の名将・大久保秀昭(上)
 昨年10月のプロ野球新人選択(ドラフト)会議で、即戦力野手として3球団が1位指名で競合し、DeNAに入団が決まった社会人野球ENEOSの度会隆輝外野手。父博文さんもヤクルトでユーティリティー選手として活躍しており、親子2代のプロ野球選手の誕生だ。
3年前、横浜高時代はプロ志望届を出しながら、どこからも指名されず、悔しい思いをしたが、高校卒業後の度会の選択は間違っていなかった。横浜に本拠を置くENEOSに入社し、2年目の2022年、最高峰の都市対抗野球大会で4本塁打を放って優勝に貢献するなど着実に成長し、プロから最高の評価を得ることができた。
ENEOSを率いるのが大久保秀昭だ。日本のアマチュア球界で最も実績を残し、注目されている指導者とえる。
大久保は神奈川・桐蔭学園高から慶応大に進み、4年時に主将として東京六大学野球リーグ戦で春秋連覇を達成。ENEOSの前身である日本石油では1年目からレギュラー捕手をつとめ、5年間で社会人ベストナインを4度受賞。1996年のアトランタ五輪では正捕手として全日本の投手陣をリードし、銀メダル獲得に貢献した。
 五輪の年の秋、ドラフト会議で近鉄バファローズの6位指名を受け、プロ入りを決断。27歳だった。5年間在籍したプロでは故障に泣き、1軍では実働3シーズン。2001年限りで現役を退いた。その後、監督付のマネジャーや球団広報を経て2004年、横浜ベイスターズ(現DeNA)の2軍である湘南シーレックスの打撃コーチとして指導者への道を歩みだす。
 大久保は「やがて近鉄に戻るつもりだった」というが、古巣の近鉄はオリックスとの合併で、その可能性は消滅してしまった。
 ちょうどそんな折、もう一つの「古巣」である新日本石油ENEOS(日本石油から社名変更)も2年連続都市対抗出場を逃すなど窮地に陥っていた。単に都市対抗本大会に出場できないだけでなく、業績も伸び悩み、チームの存続すら危ぶまれる事態に追い込まれていた。
 大久保は日本石油に在籍していた5年間、毎年都市対抗に出場し、93年と95年には黒獅子旗(優勝旗)を手にしている。会社にとって、大久保はまさに「切り札」だった。チームの再建を大久保監督に託そうという声が高まった。社会人球界では2003年からシダックスの監督に就任した野村克也がいきなり都市対抗本大会で準優勝するなど「監督の力」が強く印象付けられている時期と重なった。
就任1年目の06年は都市対抗・神奈川2次予選の敗者復活戦で敗れ、チームは3年連続本大会出場を逃した。しかし、2年目の07年に4年ぶりの都市対抗出場を果たすと、08年には13年ぶりの優勝に導いた。その後も常連として名前を連ねるようになり、就任7年目となる12年の第83回大会と、翌13年の第84大会で連覇を達成し、見事に会社の期待に応えてみせた。
都市対抗で優勝3度の名将を、今度はもう一つの古巣、慶応大が見逃すはずがない。大久保が15年から母校の監督に就任すると17年秋、18年春、19年秋に東京六大学リーグ戦を制し、ここでも名門復活を果たした。
監督としての力量発揮はこれだけにとどまらない。19年12月に再びENEOSの監督に復帰すると、22年の第93回大会で度会の活躍もあって大会史上最多の優勝回数を12回に伸ばした。このうち選手として2度、監督として4度の計6度も社会人野球の頂点に立ったことになる。
大学でも社会人でも名将としての実績を残してきた大久保。プロ野球では2球団で選手、裏方、コーチとして9年間過ごした。「この経験が自分にとっては大きい」と語る。それはどういうことか。次回はその辺に光を当ててみたい。(敬称略)