「100年の道のり」(72)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎発火一瞬のダイナマイト打線
 プロ野球リーグ戦が復活したのは1946年4月27日のことだった。参加8球団で、15回総当たり。チーム名と監督は次の通り。
▽巨人=藤本英雄・中島治康 ▽セネタース=横沢三郎 ▽パシフィック=藤本定義 ▽中部日本=竹内愛一・杉浦清 ▽ゴールドスター=坪内道則 ▽グレートリング=山本(鶴岡)一人 ▽阪神=藤村冨美男 ▽阪急=西村正夫
 この年の最初の試合は元旦に西宮球場で行われた阪神vsグレートリングで、阪神が5-3で勝った。この後、新聞社主催の大会が復活し、3月に毎日杯、4月に中日優勝大会、開幕直前に読売優勝大会が行われ、順に阪急、巨人、阪急が優勝している。
 それまでパッとしなかった阪神が開幕戦のパシフィックに勝つと、持てる力を発揮し始めた。6月末に2試合連続全員安打と強打をふるい、7月には14連勝の球団タイ記録を作るなど打線の活躍が大きかった。
 「タイガースのダイナマイト打線」
 こう呼ばれるほどの猛打で相手を打ちのめした。チーム打率2割8分8厘はリーグ1位で打撃10傑には首位打者の金田正泰(3割4分7厘)をはじめ3位に土井垣武、4位に藤村冨美男、10位に本堂保次と4人が入った。
ところがシーズンが終わるとグレートリング、巨人につぐ3位に終わった。首位と7ゲーム差を付けられていた。原因は投手陣が踏ん張れなかったからである。チーム最多の14勝を挙げた呉昌征がノーヒットノーランを達成したのが目立ったくらいだった。
この強打線が最高潮だったのは優勝した翌47年のことである。
2位・金田3割1分1厘、4位・塚本博睦3割、7位・本堂保次2割8分3厘、10位・藤村冨美男2割7分4厘、12位・呉昌征2割6分7厘、15位・土井垣武2割5分9厘でチーム打率2割5分8厘は1位。
投手陣も整備され、若林忠志26勝、梶岡忠義22勝、御園生崇男18勝の3本柱が実力を発揮した。チーム防御率2.18は2位だった。
投打総合を見ると、打線は安打1058、二塁打167、三塁打57、得点502、打点444などがリーグ1位。長谷川善三が犠打16で最多だった。
この猛打線は49年に別当薫が入団して打ちまくり、さらなる期待をされたが、そのシーズン終了後に大量のレギュラーが新チーム毎日オリオンズに移籍したことによって崩壊するのである。
プロ野球の歴史を振り返ると、一瞬派手に発火したダイナマイト打線だった。(続)