「ONの尽瘁(じんすい)」(7)―(玉置 肇=日刊スポーツ)
「試合に負けて帰ると、のどが痛くなっていることがある。なぜかな?と思い返すと、車の中でカセットをかけて大きな声で歌うからなんだね。自分ではそれほど声を出しているつもりはないんだけど、結構がなりたてているんだろうね、ふふっ」
これは巨人監督の王貞治に、「監督の気分転換は何ですか?」とたずねたときの答え。いつも愛車の中にはカセットテープのケースがあり、その中に二葉百合子や美空ひばりのものがあったと記憶している。ちょっと意外なところではロッド・スチュアートのテープも!! 指揮官の日常に触れた気がして、親近感が湧いたものだった。
指揮官の声を枯れさせるほど悔しがらせた要因とは? 1985(昭和60)年シーズンの場合、それは投手陣の不調にほかならなかった。江川卓、西本聖、定岡正二の「先発三本柱」がそろって不振に終わった。
江川は1982(昭和57)年夏ごろに痛めた右肩の状態が改善せず、散々なシーズンとなった。完投試合数は前年の13試合から3試合に激減していた。完封勝利も全盛期の7試合から、わずか1試合に急降下。防御率は5点台に落ち込んだ。
そのシーズン、江川が唯一の完封勝利を挙げた試合を振り返りたい。8月3日の阪神戦。しかもプロ入り初の1安打完封だった。試合後、クールダウンする江川に王は声を掛けている。
前にも記したように、王が選手とコミュニケーションを取る機会はさほど多くはなかっただけに、このシーンはかなりのレアケースといえた。
王は「ご苦労さん!やればできるじゃないか!」とねぎらった。否、ねぎらったつもりだが、肩が本調子ではなくカーブでかわすピッチングに徹するしかなかった江川にすれば、およそ心まで届かない言葉だったろう。
西本にしても辛くも2ケタ勝利(10勝)には届いたが、防御率は4点台。もう一人の定岡はわずか4勝止まりに終わった。
明るい材料もあるにはあった。若手の斎藤雅樹が先発に、中継ぎに獅子奮迅の働きをみせ、チームの勝ち頭である12勝8敗7Sをマークしたことだ。それにしても、先発ローテに期待を寄せた槙原寬己の不振に相殺されて、全体としては来たるシーズンに補強ポイントを残しただけだった。
クローザー不在にも泣かされた。角三男(現盈男)が42試合、鹿取義隆が60試合に登板したが、絶対的存在にはなり得ず、中西清起を新守護神に据え首位を快走した阪神とは好対照の展開となった。打撃陣が好調でも、得点以上に投手陣が失点を重ねては、戦術に勝利しても戦略で敗戦に転じてしまう悪循環に陥った…。
この年、優勝は21年ぶりの阪神。王巨人は3位に終わった。王は、就任3年目となる1986(昭和61)年シーズンへの補強ポイントとして投手陣の整備を第一義に掲げた。ためにドラフト戦略、投手コーチ人事、トレードに逡巡(しゅんじゅん)しなかった。
ドラフト指名で、王は、人生最大の「芝居」を打つことになる。(続)