「インタビュー」江夏豊(2)-(聞き手・露久保 孝一=産経)
◎「自分を必要とするならば」大リーグ挑戦
―大リーグで活躍する日本人が増えています。近年、日本のプロ野球で実績を残した選手が、ポスティングシステムを使ってメジャーリーグ入りに挑戦するケースが目立っている。江夏さんも大リーグで経験しました。
江 夏「私の場合は、現在と状況が違う。私がチャレンジした時は、大リーグに行く者などほとんどいない昭和60(1985)年だった。大リーグに行ったのは、正直にいえば、自分が日本のプロ野球から追い出されたからです。日本の野球が自分を必要としないなら、新しい野球の場所でもう一度挑んでみたいと考えた。とにかく、自分を必要としているならどこでも行くという覚悟を決めていた」
≪江夏さんは、84年に西武を自由契約となり、同年12月26日にミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約を結んだ。36歳になっていた。阪神時代に三振の山を築いた剛速球は影をひそめたが、打者の心理の裏をかく投球術と制球力は少しも衰えてなかった≫
―日本のプロ野球界を去ったのは、どんな理由からですか?
江 夏「私がいた西武は広岡(達朗)監督の時代だった。組織、管理面で大変ガードが堅かった。そんなチームの中で、自分が取った行動は野球界に合わなかった」
ーそれは、具体的には・・・
江 夏「女性や子供じゃあるまいし、門限があった。門限があると、人とゆっくり会う時間もなくなり我慢できなかった。練習では帽子をかぶり、ストッキングを履けと・・・ガキじゃない。それに反抗すると、監督批判と言われた。西武が自分を追い出したこともあったが、自分から飛び出したんです。いま考えても、愉快でもあり苦しい時期でもあった。もう一度、見返してやりたいと思っても、最終的にやるところ(チーム)がない。いまは台湾、韓国での野球もあるが、当時はアメリカ・メジャーの存在が大きかった。そこでやってみようかと目を向けた。ただ、メディアを通しても大リーグのことは頭に残ってなく本当に無に等しかった」
▽メジャーの選手とプレーしいい財産に
―ブリュワーズに入って、実際はどうだったですか?
江 夏「私は、野球以外のことはほとんど知らないので、いろいろ苦労した。アメリカの選手からは、よく聞かれた。『日本はどこにあるんだ』とか『日本では本当に野球をやっているのか』とか。彼らは、日本に関する知識は乏しかった。日本のことをもっと知って、認めてもらいたかったと思ったほどである(笑)」
≪85年春にブリュワーズのキャンプに参加する。一軍入りを目指したが、果たせずに帰国となった≫
ーメジャーの選手たちと一緒にやって、どう感じたか?
江 夏「メジャーの野球を肌に感じて、日本の野球とアメリカの野球はこんなに差があるのかとつくづく思った。実際に選手たちとプレーして、それを実感できたことはいい思い出であり、私の財産になった」(続)
〈えなつ・ゆたか〉1948(昭和23)年5月15日、兵庫県生まれ。67年、大阪学院高からドラフト1位で阪神入り。2年目に25勝で最多勝、401奪三振のシーズン最多記録をつくる。71年7月、球宴第1戦で9者連続奪三振を達成した。76年に南海に移籍し、その後、広島、日本ハム、西武で活躍し通算206勝210セーブポイントを記録。先発とクローザーで成功した唯一の投手である。日本プロ野球名球会会員。